8少し考えた
私達は 世間の中で 家族繋がり 親戚繋がり 近所繋がり 地域繋がり 学校つながり 仕事つながり なかま繋がり 今は亡き人とのつながり 未だ知らない人との繋がり などの繋がりに意を強くして暮らし生きている。今は亡き人との繋がりは世間の概念に含まれていると私は思います。自分の脳裏に浮かぶ みんな そして 思い浮かばないが自分が お陰様になっている みんな との繋がりが世間というものかも。誰かは知らぬが米を作ってくれたから御飯が喰える コメの加工 輸送 販売 其れ等に使う袋を作った人 買うお金を造った造幣局 のお陰様もあって御飯が喰える。毎日を彩る テレビ 電話 新聞 本 NET コンビニ etc、、、これも世間 世間のお陰様。自分は何の働きもしていないと思っても 飯ぐらいは喰う、この消費が生産者にとっては有り難い、消費するだけで世間の役に立っている。世間はお互い様、お世話になっております、お陰様で、宜しくお願い致します。。。(賢すぎる方の中には どう宜しくするんだよ?と問う方がいるかも)、、、たとえ孤独に見えても一人と思っても 一人じゃないよ 広い世間には きっと 同じような問題を抱えた なかま が居るよ。。
済みません(何で謝ってるんだよ??と理屈っぽい方分け知りの方などがおっしゃる)、、、以前聞いた知識で敢えて解説すると 場合によっては 謝っていません、御礼を言っています、、< 因果応報このままでは済みません私に善くしてくれたアナタには善い因果応報があります私も可能な限り恩に報います このままでは済みません > という意味です、、、、この際過ち犯して謝る例を付け加えると 例えば次のような謝っている使用例あり、、、< 因果応報このままでは済みませんアナタに悪いことをした私には悪い因果応報があります私は可能な限り償いに努めます このままでは済みません >、、 と言う意味になります、文脈によって感謝にも謝罪にもドチラノ意味にもなるのが済みませんと言う言葉なのです、因果応報を理解し其の場の状況を理解して判断すれば感謝の意味か謝罪の意味かは即時自然に分かります、、、多数の日本人は子供の頃から何となく分かって使い分けています。感謝でもなく謝罪でもないが なんとなく因果応報関係ありと思ってスミマセンと言う場合も少なくない、例えば スミマセンこの方向に歩いて行けば二重橋に行けますか?と道を訊ねる、このスミマセンは 感謝でも謝罪でもなく、、、< 因果応報このままでは済みません 只今アナタに働き掛けている私には何らかの因果応報が有ります、私は其の因果応報を受け止めます このままでは済みません >、、、と言うような意味になります。このとき道を訊ねられた相手の反応は極端な場合は<馬鹿野郎 いま浮かんでいたグッドアイデアが消えちゃったぞ~~ほかの奴に訊けえ~~~>、、、かも知れません。。
徹底的にやると やり過ぎになることが多いように思う。多分 人間は完全とか絶対とかいう無謬性は具備していないと思われます。それなので 完全予測とか絶対正しいとか絶対の調和とか絶対の清潔とかを狙って計画して 具体的に徹底的にやると 初期段階では そこそこ 上手くいったとしても 進行するにつれて矛盾が顕在化するなど 何かと齟齬をきたし あるいは いわゆる やり過ぎになることが多いと思われる。たとえ そのテーマでの目的は達成していても 何らかの副作用が発生していて それが思わぬ異なる分野での問題発生の要因になっていたことを知らず かなり後で其の事が解明された等という事態も起こり得る。そこで 何かを言ったり行うに際して 間違っているかも知れないとか 想定外の物事は沢山起こるとか という前提を多少は保持しながらも決めて実行しているのだ という謙虚な考え方は重要であると思う。想定外だ と大騒ぎするのはやむを得ないが 未来は想定外で満ちていると考えます。だからと言って どうせ想定外の問題が起こるから 何もしない方がよいとは思っていません 何もしなくとも別の想定外の問題は起こると考えます。私たちは其れ等を乗り越えながら生きなければならない世界に生かされているような気がします。
未知を追求する態度と未知と共存する態度とどちらが善いかは場合によると思います。仕事や事件事故や学術分野では前者が望まれます。だが人間個人が生活し生きてゆく毎日においては後者が善いのではないかと思っております。世間には答えのない問題が多すぎます。さらには 正解は此れだとされていたが実は間違いだったとか 難病 精神障害 癌 認知症 など原因や治療法が未知であるものというか上手く治る方もいるというレベルにある困った病気や障害という問題にも向き合って生きてゆかなければならない。研究者など専門家の方々などを除けば この様な答えのない問題に毎日向き合う当事者や其の家族は 未知を追求する力よりも (出来れば なかまと共に) 答えの無い事態に耐える力つまり凌ぐ力を培うことが望まれます。解決困難問題に向き合い続け精神的困難を凌ぐ毎日を暮らしているだけで十分に頑張っていると敬意を表します。
事件報道の初期段階で 精神通院と報道されること少なくないが 事件発生の一要因であると判定されてから報道しても遅くはないと考えます。健常者でも 癌が手遅れになっていたと診断されて 自暴自棄になり事件を起こす人がいるかも知れず その人の消化器外科通院歴などを最初から調べて報道はしないと思われます、事件発生要因と知ってから其の通院歴も報道されると思われます。報道機関におかれましては 精神通院に関しても同様な取り扱いを お願い致します。
中毒というとアルコールやニコチンやギャンブルが思い浮かぶが 年金を頂くようになるとテレビ視聴も中毒になっている方は少なくないのではないだろうか。かく言う私も テレビ中毒から脱出すべく努力中であります、家内が亡くなり 同居の精神障害の息子の障害軽減・自立回復を願いながらの世話を筆頭に NPOやら自治会関係やら そこそこ忙しく活動していますが 年金を頂くようになって久しい今日この頃です。従来は 朝起きるとまずテレビをつける そこそこ外出し 不在の時間も多いのですが 自宅に居る時は何か遣りながらでも 点けっ放しで 情報番組 連続テレビドラマ 大河ドラマなどをツイツイ見てしまい などしながら 家事 食事作り 諸々をこなす。点けっ放しはテレビ中毒であると最近は考えるようになり 原則としてテレビは点けず 中毒誘発するからTV連続ものは避けて 明確にニュースを観るとか 明確に観ると決めたドラマやドキュメンタリー番組を観るとか 必要と考えたときだけテレビを観て 見終わったら テレビ点けっ放しをせずに一旦消す という行動を心掛けて努力しております。特に起床直後はテレビをつけずに 先ず自分の頭にうかんだことを大切に ぼんやりでも良いから自分なりに思いを巡らし 次に本日の予定とかを確認して せめてお茶や食事を終えてから ニュースなどで何としても観たいもの有ればテレビをつけるが 其れを観終えたら一旦必ず消す。毎日仕事に追われている方は逆に起床したらTVやラジオ新聞など必須でしょうが。 私は基本的にラジオも同様に心掛けています。 この様に努力し始めてから 惰性で過ぎ去る時間が減ったように感じます、精神的に落ち着いた感じがして 自分で考える時間が増えて従来より充実した時間が過ごせているように感じています。毎日毎日何かせかされている感じが減りました。気のせいだけかも知れませんが。今後も続けたいと思っています。確かに情報や知識のINPUT量が減りますが それで本当に必要な情報が入らないことは無さそうです、このやり方による情報のタイムラグも実害がある長さとは思えません、時には機会損失を被るかも知れませんが そういう問題よりも 自分なりの確かな生き方や人生大局的判断ミスをしがちなので其の事を考える時間を取る方を心がけるべきかと思うようになりました。
日本の代表的寸法が 1.81818181818181818181818~~~~M であるのは チョット おもしろい 取引をする時には要注意かな。
普段は区別せず使っている定規と物差し 目盛付定規も多い だが本来は異なる物であるから使い分けが必要な場合もある。 定規の目盛は端部目盛らず書きやすさ優先であるが 物指の目盛は端を押し当てて長さ測定できる目盛付けになっている 定規:線を描く道具あるいは刃物を添わせて正確な裁断を誘導する道具←ruler,T-square,pattern, 物指し:長さを測定する計量器←mesure,standard,scale←定規として使うと材質次第では測定時に問題を招く可能性もある、ただし硬いステンレス製品なら現実には問題なさそう。
とくに若い方々は 常識 社会通念 斯くあるべし すべき から自由に自主的に考えて生きるのが良いのではないかと考えます。例えば親子問題 : 何で子育てしなければならないの? 何で親の面倒を見なければいけないの? 正解はよく分からない前後関係含めた難問です。例えば 単純に考えると 親の介護をしたくないなら遣らない選択は有りと考えますが (周囲が気になって嫌や嫌や遣り続けている人が少なくないという記事) を目にした。考え方を変えたり気持ちを切り替えて嫌で無くなれば良いのですが 其れが困難ならば親の介護を施設に委ねるなどを行政と相談するのが互いの為によいかと考えます。其の費用も出せないとか 出したくないとなると これも厄介ですが 子の自由自主を尊重し そういう子であると親も諦めるしかないのかもしれないと思います。子なしの人に比べれば 諦める相手がいるだけ良い方だと言う見方もできるかも知れません。子を持つ私もピンピンコロリと行かなかった場合には野垂れ死に止む無しと覚悟はしておりますが 醜態を晒し世間にご迷惑をお掛けしました節はご容赦ください。
net活用したりしてボランティア其の他の共助活動を大々的にPRしているのは普通のやり方だが 私はもう一つの別の遣り方もありと思っています、其れは 実在の人と人とが現実に出会って知り合いとなるなかま創り 縛りをかけず自然発生的に細~くツナガルなかま創りです。PRはせず 直接的な出会いのみでツナガルなかま で構成するユル~イ連携関係です。互いに負担が少なく特定の人が頑張らなくてもよい消滅しにくい継続性の高い連帯です、戦前の日本の隣り近所連帯から良いとこ取りだけしたような関係を考えています。つらしわかち も其の路線でと考えています。
兎にも角にも 強く願望すれば叶うという行動が多く見かけられますが 叶える方法論の相違は多くの場合に決定的に結果を左右するのではないか 其れに加えて想定外の支援あるいは運が結果を左右していると考えております。健康に生きたいとか 平和が続いてほしいとか 誰しも 願っていますが 叶わぬ方々あり 叶わぬ民族人々あり。納豆が体に良いとTV放映されると店から納豆が消えるが其れで健康になったかどうかは定かでない。平和憲法で日本は戦争を放棄し戦力を保持せず交戦権を認めないと定めたから戦争は起こらず平和が続いたし此れからも続くという意見があるが本当にそうだったのかは定かではない、なぜなら日本には戦後一貫して 日本軍は居なくとも米軍が居たし今も居る だから日本に全く戦力が無かったことは一日たりとも無かったのであり 米軍を含めて考えると 日本国憲法の戦力不保持が文字通りに守られたことは無く 自衛隊が存在する現在は 仮に米軍が居なくなっても 憲法の戦力不保持を文字通りに守ることは不可能である。この意味で 平和憲法9条は戦後一貫して守られなかったが 日本は平和である。大戦の多大な犠牲者の お陰様で平和運に恵まれたとも考えられる気がする。
人間が解っていることは膨大だが 解っていないことはモット膨大に存在しているらしい。もっと知りたいと思索したり研究したりすることは重要と考えますが テーマによっては 深く考え過ぎないことが最善と思われるものも有ります。死後の世界とか霊魂の存在も考え過ぎないことが最善と思われるテーマであるようです。お釈迦さまも答えを出していないようです。
惨めな死に際をさらしたくない とは常識的な考え方でしょう。身辺整理をキチンとしてから逝くのは見事です。だが 私は野垂れ死に派です。自分なりに無理なく生活している日常の中で死を迎えたく存じます。乱雑な部屋の中で突然死あり あるいは病院に運ばれてソノママ戻れずご臨終あり あれを遣りたかった これをしたかった 食べたいものが有ったのに残念 好きを出来ることを見つけて生きる日常が終わるのは残念だが 生き切って野垂れ死にで まっいいか。
結果がでない成果上がらずだから存在価値無しというのは短絡的ではないかと思います。その工夫努力の効果が直ぐ顕在化するとは限らないし想定外の何処かに好影響しているかも知れないし身近には何の役にも立たなくとも世間の縁の下の力持ち陰ながら役立っているかも知れない、あまい世界観で視野を広げてみると捨てたものではないとも考えられます。。市場原理企業論理だけから考えると無能役立たずという評価になりそうですが。
一つの山に二匹の虎は棲めないとは中国の諺らしいが 心がけ次第で 考え方も習慣も何もかも異なる二人の人間が棲み共存共栄することは出来ると思う。妥協いいかげん広い心 欠点迷惑行為お互い様たがいの生き方を尊重、、みたいな心がけ次第。、、、それでも闘いとなったなら其れも運命だから全身全霊で謀略策略ときに勝てる悪手を使ってでも闘い抜く。または出来るなら遠く離れる。
人間とロボットやAIとの違いは いい加減さの有無ではないかと思います。あるいは迷いや揺らぎの有無ではないかと思います。あるいは特異点が突然意味も無く発生するか否かではないかと思います。
悪態をつく 貶す 実情を詳しく正確に分かっていない方が他人を見下して悪態をつく例が少なくない様に感じます。マスコミなどで識者論客が他人を批評批判する中で 貶す言葉を紛れ込ますことを見かけることも有ります。批評批判は社会において有益ですが、貶す言葉は有害です。こき下ろしたご本人はスッキリするのかも知れませんが 受け止めている側は嫌な気分になります。、、、、でもマッいいか。受け流す、スルー。。。
褒めて育てろ はホボ正しいと思います。怒るのも 叱るのも 悪いと思います。ホボとしたのは 叱らないで育てるという要素も採り入れたいと思うからです、黙って見守る方も厳しいですが。褒めるだけでは思い上がりという欠点を育成する虞もあるという気がします。
ネットだけでなく新聞もTVも正しい情報ばかり流してはいないと考えて利用しています。記者の方々は真実と信じて記事にしていると信じてはいます。しかしそもそも世の中の情報が大昔から真偽入り混じって存在しており記者自身も発信者も評論家も誤解と偏見を持った存在です。三十年前の常識の中には今では誤りであったと認定されている事柄が分野を問わず少なからずあります、常識とされている真実なるものが誤っているかも知れないのですが、自分なりに総合判断して正しいと信じられたら正しいと言い切っているだけです。普通は其れ以上深く考えない方が無難です、日常生活もスムースです。。
成功した方々の中には あきらめず志を貫けば必ず達成できると仰る方も居られる。そうかもしれませんが 平安時代に空を飛ぶ志を立てても達成できなかったと考えられます、しかし其の努力が実らなくとも将来の同志が成功達成するための縁の下の力持ちにはなっている可能性があります。現在あるいは将来の何かの肥やしになっているかもと言う意味でなら 自分が一生懸命努力して達成できなかった事柄にも意味があるように感じます。その他大勢の人生も それぞれに 世間に微塵の貢献をしているように感じます。元に戻って別視点で考え直すと 現実に成功した方の固有能力と努力には敬意を表しますが それに加えて目標設定や時代背景や環境などがドンピシャリだったという運命が其の方に味方したと考えられ、同じ程度の能力有り同じ以上の努力をしていた別の方が成功しなくとも不思議はなく、まして 同じ分野では より固有能力が劣るその他大勢組に同じ内容の成功は覚束ないと思われます。ですが その他大勢組のなかにいても 別の分野では成功する人々が沢山輩出することは勿論です、沢山ある別の分野各々に先に述べた理屈が当てはまり 各々の分野で各々の成功者が出てくるのは当然と考えられます。100M競走だけが陸上競技ではなくそれだけがスポーツでもなく其れだけが人間の競争でもなく唯一の目標でもないのと似ています。。。
いかに良いことでも やり過ぎ は避けたい避けさせたい。働くことは良いことだが働きすぎは問題あり、人助けは良いことだが余りに自分たちの暮らしを犠牲にするのは問題あり、難民受け入れは良いことだが自分達の人口増加ペースを上回る増加ペースで受け入れるような やり過ぎをしたら 多分問題発生しそうである。栄養を摂取することは大切だが いかに重要な栄養素でも 過度に摂取しすぎると 多分 体に悪い。何事も 過ぎたるは 多分 及ばざるより悪し。
上手くやりたい 完璧にやりたい 此のように考えるのは普通だが 此れが 度を超すと 精神的に問題を起こすかも。スポーツやテレビの中などで<<完璧にやった>>などと叫んでいるが 言いたい気持ちは分かりますが もともと人間は完璧なことは出来ないと考えています、完璧の基準を作れば其れを達成した時に完璧だとは言えますが その基準を上げれば達成出来なくなります。其の様に考察すると人間は少し神に近づく努力はできるが神にはなれないから完璧とは程遠い存在であると思います。しかし世の中では ~~の神だ、神業だ、絶対だ、完璧だ~~~というような言葉が飛び交っています。でも神様を100点としたら小数点以下の遥か下の点数のはずです。でもそれでは やる気が出ないので 完璧だと褒め称えることに賛成ですが。問題は 何かを出来なかった人々の中で 上手く出来ないことに悩み苦しむ方が居られて 且つ 精神的な困難に落ち込む方も居られるようなのです。いい加減でいいではないですか?出来なくともShake it off、それが駄目なら別の狙いに挑戦すれば??と他人は気楽に言えますが。そこを何とか 当人も 他人の視点に立って観ることが出来れば 素晴らしいと私は考えます。
意味の無い人生に絶望したと言う遺書を残して自殺とのニュースに重苦しい思いで合掌しました。塗装工事をする勤務先でイジメを受けたベトナム人技能実習生が河川敷で首吊り、幼友達のベトナム人技能実習生の話しでは 言葉を覚えられなくて殴られたりしていたらしい、別の仕事に変わりたいと斡旋機関に申し出ていたが対応はしてもらえなかったらしい。。同じような境遇の方々には (彼は精神的に参ってしまったのでしょうが) 思い詰めるな~~ 死ぬな~~ と言いたい。逃げろ~~とも言いたい。。
お説ごもっとも納得 説得力ある論が実は間違いという例は少なくない。田分け者だから たわけもの は愚か者の意味になったという説得力ある論も其の一例であろう、本を正せば田とは無関係で たはけもの 戯け者(愚か者の意味もある)であったが それが変化して タワケモノ となり 前出の説が納得されるようになったようです。
わたしの座右の銘 むかしは(有理と自立)だったが、 いまは(出来ることを為しつつ生きる皆んなで緩めに)の方が善いと思っています。
結果を知っていて論ずる後世の有識者は 其の時代を今として生きていた人の判断を安易に批判することに関して 想像を逞しくして極めて慎重にすべきと考えます。今現在生きている私たちは 今後について将来について判断して行動していますが 同時に一寸先は闇であることも念頭にあります。この闇の有無が 百年後の有識者との決定的相違です。百年後の有識者は 今の私たちが下した決定の結果を知っていて論ずることが出来るのですが 今の私たちにとっては 下した決定が如何なる結果と繋がるか予想はしても実は不明であり闇不安が付きまとっていることは避けられません。今を生きていることの意味を少し考えて見ました。
分かってほしいと願うのが人の常 ですが 自分が思う程には分かってもらえないのが現実であり <<分かろうとして頂けるだけでありがたい>>と考えて共に生きてゆく姿勢が望まれます。どうして分かってくれないのか??という考え方に陥ると 次々に問題発生関係悪化 いいことなし。分かってくれないのが普通と考えれば 世の中は かなり平和になると思っています。勿論 普通に説明し 理解は求めますが しつこくしない という意味です。思い返せば 自分の親兄弟のことも良く分かってあげられなかったし 向こうも私のことを良く分かっていたかどうかは疑わしいが どちらも そのことで 普通は 腹を立てたり責めたりはしない。自分自身ですら 自分のことを真に分かっているのか 只 分かったつもりになっているだけなのではないか。。。
業務を遂行する目的達成に邁進するという感じの視点においては 妥協しない突き詰める頑張る過ち許さず綿密などなどの姿勢が重視されているように思われますが 自分の人生をどう生きるかという視点に立つなら私は 妥協する突き詰めない頑張り過ぎない過ち誤りも認める 融通無碍 いい加減も適当に認めるなどなどの鷹揚な姿勢を重視したく存じます。鷹揚に みんな それぞれに 自分の人生を確りと生き抜くことが善いことなのではないかと考えております。
単語に マウンティング的な過大な修飾語を付加している場合には それだけで私は信用度合いを引き下げます、少なくとも強く警戒して割り引いて受け止めます。たとえば日本を大日本というように凄いんだぞと具体的でなく抽象的で過大な修飾語表現を付加すること、TVなどで見かける画期的とか有り得ない特効とか、、普通に能力と言わずに超能力と超を付加する 価値でなく高価値という 優れているでなく遙かに優れているという などなど には思い込みなど危うさを感じます。。。
私は信心というものが殆どありませんが 仏閣にも神社にもお参りします、誘われてキリスト教会にも行ったことが有ります。敢えて決めるならば 素朴神道と言うところです、教派神道とも国家神道系統とも何かと異なる土着的古代的神道の素朴な一面や行事に共感する者です、、、明治維新となり国家神道が推進される過程で 八百万の神々と称される各地の土着の信仰や神道的風習と其の神社等は多数が取り潰され、例えば和歌山県では3700社ほど有った神社が600社に激減したと伝えられている、このような神社合祀令の強行に各地の民衆は猛反発したし 学者でも南方熊楠などは猛反対したが 紆余曲折あるも昭和初期までに八百万の神々を切り従えた国家神道がほぼ完成し 天皇神話によると思われる神社の序列が定着した、、 切り捨てられても生き残ったものや 戦後復活したものも有るようですが 社は潰されたままでも 残された地元の言い伝えや風習には独自のものも数多く現存し 土着の素朴な神道を窺がい知る援けになると考えられます。お墨付きもなく大きな勢力ではないが各地に何となく共通して観られる八百万の神々の神道的行為を収集すれば素朴な神道の姿が見えてくるのではないかという考え方をしています。。
Ruth Benedictに触発された分けではないでしょうが 日本人の中に 恥を従来にも増して必要以上に意識する方々が増えたのではないかと危惧しております。失敗したり間違えたり何かで負けて惨めな立場に追い込まれたり などなど 誰しも長い人生では恥を意識する場合があると思われますが 其れを感情的に必要以上に強く意識し過ぎると 怒りや絶望などの望ましくない精神が支配的になり ついには喧嘩や自殺などという極端に走る可能性が高まると考えております。其のように思える事例を報道で知ることが少なからず有ります。。私は 犯罪行為以外なら恥をかくのも止むを得ないと割り切っておりますが、 そもそも 日常の生活の中で様々発生する確執トラブルや誤解偏見イジメ抑圧あるいは自らの失敗や過誤など惨めな困難な問題発生に際して <<恥という感覚を持ち込まないで解決策を探る>>、、、この感覚が身につけば 冷静な適切な対処が出来るという気が致します。
発展したい 豊かになりたい 有名になりたい 強くなりたい 錦を飾りたい もっと もっと 、、、地域が 個人が 夢と希望をもって競っている、、、、だが物事は思い通りにはナカナカゆかない 国破れて山河あり 個人も挫折し夢破れ あるいは端から落ちこぼれている人までいる、、、所謂進歩や文化から取り残された地域や人は本当に惨めな残念な存在なのか????考え方によっては其の通りでしょう、、、しかし観点を変えれば次元の異なる豊かさが見えてくると感じております。。。敗戦後の日本は現在に比べれば惨めな暮らしでしたが 当時の方々は惨めだなどと考えてはいませんでした、余計なことを考えている間が有りませんでした、子供の私も一生懸命に活き活きといきていました、、、、、今思うに昔も今も金持ちも貧乏人も アレも良し コレも良し それぞれに一長一短 モノは考えよう、 物質も物質以外のアラユルものも含めた”全て”を考慮出来ると仮定すると 何かを得れば何かを失うのは止むを得ないのが此の世界なのかも知れない と考えるようになりました。
禍福はあざなえる縄のごとし 禍福だけでなくヨイ・ワルイも短期でみるか長期でみるか一元的に考えるか多元的に考えるか如何なる人生観や価値観に立脚するか如何なる世界観に立脚するかなどなど 人によって見方見え方は変わり時には逆転する。日常的具体的なものごとに関しては優劣をつけられるが 抽象的な物事には優劣付けはなじまないと私は考えています。世間では個人の優劣幸不幸勝敗善悪正誤などの二者択一を論ずる方は少なくないが 私は此のような二者択一は極めて限定的な条件でのみ可能であり一般論で論ずるのは不可能に近いと考えています。換言すれば どの個人も数十億年の歴史から産み出され無限に見える広大な世界の微小な一部を成し世間のお陰様で世間の一部を成して生きているという観点に立つ時 そのような個人の優劣幸不幸勝敗善悪正誤などを考えることは考慮すべき要因が無限に多く価値観による重み付けも多様過ぎることから 労多く益なし と考えられます。卑近な例ですが 其の昔 息子がまあまあの学校に進学した時に 家内に向かって家内のママ友が <勝ったわね> と言ったと聞いた、家内はそういう見方はしていなかったが。、そのママ友は ママ友仲間の誰かを明確に意識して家内に言ったのである。同じ学校を受験して当落が分かれたのなら其の一点では其のように言えなくもないが、極めて了見が狭い発言である。比較された二人の個人の長い人生において此の事を以って勝敗は決め付けられないし そもそも 人生の勝敗は決められない。経済的に豊かにくらした??心安らかに暮らした??子宝に恵まれた??相思相愛の夫婦であった??健康長寿でピンピンコロリだった??苦しい一生だったが連合いも苦労を共にして連れ添ってくれた??etc人生いろいろ 誰の人生が勝ちなのでしょうか、勝手に決めることはできるが其れは独断と偏見の見本のようなものでしょう。。全人的優劣とか幸不幸とか此のような総括的全体的正解無限哲学的問題は考え過ぎず詰まり余計なことは考え過ぎず(生活や仕事の上で必要な思索はとことん考え追求しますが) 兎に角 私たちは 好きを出来ることを見つけて生きる 毎日を確かに暮らし生きるのみと考えております。。
支援するーー響きのよい言葉であるが 想像力を働かせて支援しないと 支援された側が何もしてもらわなかった場合よりも困難に陥ることもあると知っておきたいと思います。闇雲に支援することは場合により悪い結果を招くのである。放送大学でインドの貧困層への支援悪例として 支援団体がある貧民に家を建ててあげた場合を例示し その貧民は当初は大喜びだが支援団体が居なくなった後に 村人の嫉妬などの対象となって極めて困難な立場に陥るという、支援団体の自己満足に過ぎないのである。。日本国内でも 白い杖を突いている方の手を取り先導してあげるのは如何にも親切そうであるが 其の視力障碍の方が自力で行動する能力を高めたいと思って慎重に歩いている最中であったなら その努力を妨害する行為になってしまっていることに気が付かず支援したシタと自己満足している可能性は少なくない、たとえ妨害行為になっていても多分アリガトウゴザイマスとお礼は言ってもらえるでしょう。勿論駅のホームなど危険な場合であれば支援するのは当然ですが。。。また 統合失調症当事者と知ると途端に 其の当事者を敬遠し腫れ物に触るごとく端から警戒し特別扱い的支援を考える健常者・支援者は多いように思われますが 特別扱いしないことこそ精神障がい者に対する支援だと私は考えます、その当事者が失調して問題行動をした時点で必要な対応を取るだけのことと考えます。健常者でも イキナリ問題行動をする方は少なからず存在します、世の中の事件事故の大部分は健常者が惹き起こしています其の健常者に端から警戒してかかる一般人は殆ど居ないのではないでしょうか。。問題が起こったら迅速適切に対処すべく普段から想像し心掛けておくことは相手が何者であれ望ましい態度と思われます。。支援から話が飛びましたが、支援した後々の結果を想像する能力を磨くことは大切であり 想像力を働かせない闇雲な支援は支援しないよりも悪い結果を招くことありと再確認したく存じます。。
成年後見制度を禁治産者制度の呪縛から解き放つべく抜本的に見直して欲しいと願っております。根幹として見直して頂きたい事は 成年被後見人の残存能力を認定して活用する公平公正な仕組みを法的にも実生活的にも確実に実施される仕組みを創り上げることです、そうすることで成年被後見人のQOLを公平公正適正に維持できます。例えば 金融資産管理能力に疑問あり成年被後見人とされた方であっても 日常生活に際立った逸脱は無くホボ普通に生活出来ているなら 成年後見人は当該被後見人の請求する趣味等を含めた生活費を請求通りに支払わなければならないと法規で定める等です。この例で言えば 現行の仕組みでは 成年後見人のホボ独断で、保有金融資産を見て多くの方々が判断して適正と思われる限度より極めて低額の生活費を成年被後見人に渡す事例あり 其のことで必要以上に成年被後見人が苦しむ事例もあるようです。例えば1億円の定期預金を保有していても成年被後見人が従来楽しみに毎日数か所通っていた喫茶店通いをする費用を成年後見人に認めてもらえないという事態などです。さすがに成年被後見人の選挙権を認めないという判断は2013年に廃止されたのですが、成年被後見人を残存能力考慮せずに何から何まで人間失格扱いする<禁治産者制度の呪縛>は法規含めて未だ未だ多方面で残っていて成年被後見人と其の家族を苦しめています。さらに根本的に考えれば 精神障害者や知的障碍者などの当事者と其の家族に良かれと創られた成年後見制度が当事者と家族のQOL維持あるいは向上という視点では欠陥の多い仕組みに止まっているのです。無論上手くいって喜んでいる利用者は少なくないでしょうが、制度の未熟により苦労している成年後見制度利用者の声を吸い上げてより良い法規仕組みにすることを、問題点の実態を把握し改善することを、立法行政司法各々および其れ等の連携にて改革達成することを、切に願っております。もっと具体的な改善案を出せぬ情けない自分ですが取り敢えず問題提起だけを致します。