20 ひとの助けを借りて生きる/生物含め みんなと共に生かされて確り生きる

自立は基本ですが 無理のない範囲で ひとの助けを借りて生きることも大切と思っています。亡き家内が 難病になり24年間自宅で闘病生活をしていた或る時に 今年は無理をせず 人の助けを借りて生きるつもり とノートにメモをしていた、其れを見て 自宅で家内を支援・介護していた私は自己肯定感を高めた感がありました。助けていた私が 実は 助けを借りていた家内から助けられてもいたのです。

苦境に陥っているかもしれない当事者を見かけた時に <援助しましょう><相談に乗りますよ>などと支援する側が声掛けするのは常道であり 大多数の場合はそのような対処でよいと思われますが、その当事者の社会的環境家庭的環境遺伝的要素その他もろもろの要因が絡み 妄想偏見其の他精神的誤った信念などにより絶対コレヲセネバナラナイ思い込みに取り憑かれ且つ現実には其の思い込みを達成できず行き詰まって苦境に陥っている類の当事者の場合には 前述の正面突破的対処では なかなか上手く行かず 逆効果だったり 当事者の暴走を招いたりすることも考えられます。東大合格しなければ俺の人生は破滅だなどという思い込みも此の例です。この様な類の精神的苦境に陥っている当事者に対処する場合には<援助しましょう><相談に乗りますよ>などと支援の声掛けをするのではなく 逆に支援する側が 当事者の助けを借りるスタイルの対処が有効と思われます。助けを借りると言っても大袈裟なものではなく 当事者の興味や得手や容易に出来る内容等々による助けを借りるのです。例えば 当方が知りたいことを当事者に教えてもらうとか 当方の喫茶店行きに時には付き合って頂くとか 当事者の得意技のサワリを教えて頂くなどなどです。このような遣り取りから 当事者のレジリエンス向上を引き出して当事者の苦境脱出を図るのです。助けを借りるという行為はnegative と見なされがちですが 考えようで助けを借りる側が 助けを与える側に対してpositiveな効果をもたらし得ると考えます。

生物含め みんなと共に生かされて確り生きる、、、私たちは鶏をころし牛を豚を魚を殺し 稲を刈りとりネギを引き抜きなどなどなど 生物の命を奪う形で其れ等を食物にして生きている、生かされている。と同時に必要以上の殺生を避けて 食べる対象をふくむ全ての生物と共に生きている。人間は集団を作ってみんなと共に生きているという面は勿論あります。自分だけでは生きられない一面を見れば 生かされている、、生きる意欲が無ければ生きられないという一面を見れば 生きている。。。ここで 人類が何千年考えても統一見解が定まらない哲学的テーマ 例えば 幸福・不幸とか 生きる意味とか 等々を 考え過ぎずに しっかり暮らし生きることが大切と思っております。

成年後見制度というものがあります、厚生労働省は お手伝いする制度であるとしていますが お手伝いの域を超えて 後見人が被後見人が出来る事まで制限し過ぎる例がみられるようです。被後見人が誰が見ても事理弁識能力を欠く常況にある方であれば現在の成年後見制度は良く出来ていると思われます。 しかし 殆ど訳が分からなくなっている方ではなくて 被後見人が事理弁識能力が不十分な方である場合は被後見人の残存能力を活用する自由まで奪ってしまう場合が多発する硬直的は制度になっています、これは1999年に禁治産制度を成年後見制度に脱皮する際に検討不足あるいは実施してみて判明した問題点です、、禁治産制度では財産保全重視で人権や生きがいなどという視点は不足していましたが成年後見制度でも大筋は変わりませんでした。それでも 被後見人の選挙権まで奪うのは遣り過ぎだなどと過剰で且つ硬直的な制度の一部手直しも有りましたが 見直しが未だ未だ不十分です というより<事理弁識能力が不十分な被後見人に対して其の不十分のレベルに応じて被後見人の自由を過剰に制限しない適切な支援内容に出来る被後見人に寄り添った制度設計になっていない>という重大な欠陥を持った制度です。確かに 後見人 保佐人 補助人 という三類型は有りますが事理弁識能力が不十分と言うレベルの被後見人の自由裁量が過剰に制限される制度設計になっています、換言すれば 後見人は被後見人を金銭的に拘束できますし 何かと生き甲斐に関わることまで実質的に命令できます。この他にも家族の生活権利置き去り問題もあります。このことを陰に陽に気付いている多くの国民は成年後見制度の利用をためらっています。例え話をすれば 乳児レベルなら何から何まで支援する被後見人に該当するが 幼稚園生レベルなら被後見人に該当すると言っても乳児レベルと同じ支援の遣り方では当該被後見人を不幸にしてしてしまうということは万人が理解するところであると思われますし 小学生レベルなら幼稚園生レベルよりも更に自立度を高めた被後見人としての支援内容にする必要あり、、、このように 被後見人の不十分のレベルに応じた支援にすることは被後見人の人権擁護の観点からも必須です(現状は此れが制度的に実質的に上手く出来ていないのです)、、どんな制度にも運用していて問題点は発生するので其の都度検討解決する相談機関が不可欠です、これは被後見人や被保佐人や家族などが個別具体的に処遇改善を相談できる仕組みで且つ法曹関係者以外の多様な社会人経験者も参加している適切な相談機関にするという法的仕組みが望まれますが現状は存在しません、、現状は後見人に相談して撥ねつけられたら裁判所に駆け込むしかないのですが 人間的に生きたいという要望を法規審判制度のみで解決することは殆ど不可能に近いと思われます。また被後見人の生きがい保全の例では 財産もあり年金も普通にあり身体健康で多少の認知症ありという95歳の被後見人が望んでいるにも拘わらず ケーキ食うな温泉行くなプール行くな、、などと制限するならば其れは過剰な制限であると私は考えます、、この程度の浪費??では残余人生で生計破綻する可能性はなく たとえ此の被後見人の資産減少が多少有っても後見人の責任にすべきではなく、この被後見人の裁量の自由の範疇に入れるべきで此の被後見人が其れで生きがいを感じ活き活きと生き抜けるなら了とすべきです、其れこそ被後見人の生きがい保全を通じた福祉です、、ですが現状の制度では この例では被後見人の温泉行などを大目に見て通念よりも預金を多少多く減少させる事態になると後見人は責任を問われる可能性があります。勿論リスクを取って温情的寛容な措置をとる後見人もいるようですが厳格に制度に従う後見人は寛容な措置を取り得ない制度になっています。政府 政治家 マスコミはじめ関係者の皆様の御理解が深まり 被後見人(被保佐人や被補助人も)が残存能力を精一杯活かして人間らしく生き抜くことを後見人(保佐人や補助人も)が手助けできる理想的成年後見制度(悩み相談解決ふくむ仕組み)に向かって成年後見制度改革が劇的になされることを切望しております。。

日本人は・・・・・などと決めつける論調に与するつもりは有りませんが、三百年近い平和で安定した江戸時代の社会構造や人間関係の習慣は世代を超えて変化しつつも受け継がれ 親戚とか世間とかご近所とか仲間意識とか様々な人間関係社会関係における個人の意識行動に陰に陽に影響を及ぼしているとは思っています。そして 何方かが仰っているように 日本人は世間体を気にして自由に生きている人が少ないという指摘には疑問を持っています、諸外国の方々も社会の動向は気にしていると観ていますし、個人的に抜け出して活躍する方々は何処でも少数派と思われます。ただし 西欧列強では弱肉強食が当然と言う意識が強まって世界中を食い荒らした後に今は抑制的になっていますが個々人の基本的考え方にはその名残が感じられます。一方 日本は 西欧列強に対抗して弱肉強食体質に変身してアジア各地及び欧米列強に襲い掛かり一時は成果を挙げましたが反撃され潰されて元の木阿弥となり 紛争解決の手段としての戦争放棄をし 世代を超えて受け継がれてきた平和で安定した社会と人間関係の習慣の良い面を多くの日本人が基本的に受け継いで 今を生きていると考えています。同調圧力いじめハラスメント見捨てるetc問題もニュースになりますが 日本では未だ未だ 弱い人や出来の悪い人も無暗に見捨てず助け合い皆で良くなろう精神が今も良い方向に働いていると思っています。

自助共助公助  親助、、、親しさが助けとなる。。