1もの思い
つらさ分かち合い うれしさ綴り 多く傾聴し少し話し まっいいか ひととツナガリひとに親切 軽い議論おしゃべり 嬉しい 気分がいい 緩~い リラックス 温~い おおあま ケセラセラ まっいいか 自分の事も全て正しく分かっているか疑問 まして自分以外の人の事は誤解したり真の理解は出来ていないが其の人に関心を持つことは出来る関心を態度で示すことは出来る 微かに細~くツナガルぐらいは出来そう 共感出来なくとも其の人の思い辛さ嬉しさを受け止めるだけなら出来そう
複雑怪奇 何でもありの此の世界 納得出来ずとも共感出来ずとも 広~い心で ゆる~く共存できる まっいいか、、、これからも自己の料簡を広げたく存じます。。。
ともに活き生き 生きとし生けるもの なかま は勿論なかまではない方々とも ともに活き生き寿命まで生き抜きたく存じます。。 競合相手とも 気に食わない相手とも 喧嘩してる相手とも 時々相手の立場に立って考えて排除の論理に陥らず ともに活き生き。。そして 寿命に至れば甘受したく存じます。。。やり過ぎず考え過ぎず頑張り過ぎず欲張り過ぎず 上出来に思い上がり過ぎず絶対を信じ過ぎず強気になり過ぎず適度を求め 弱気になり過ぎず可能性無しと思い込み過ぎず落ち込み過ぎず いいとこ見せようとし過ぎず 求め過ぎず厳しくし過ぎず妥協は重要な前進の梃子と理解し。。。良いことも有り悪いことも有り其れでも ふつうに活き生き。。。
理解できない思考や自分と反対意見とも 広~い心で共存する努力が必要かも。例えば統合失調症等の精神障害者の中には論理的整合性がない思想や暴言をする方も居る、我慢できなくなった家族が当事者を殺傷する事件や其の逆の事件が時々報道される。当事者を匡そうと助言などして 思い通りにならず腹立て双方興奮のハーモニー喧嘩した結果も少なくない。これらは極端だが 普通の方々に対しても 求められても助言や説教などしない方が良いと思っています、何としてもと求められても参考情報提供に止めて先方に自己責任判断をさせるのが良いのではないかと考えます、自分は其れほど世界を分かってはいないので。 賛成できない他人の意見や異見には そう言う考え方もあるのですね と応ずることも悪くないかと考える次第です、自分の思いが通らずに腹立てるのは自分の方が正しいはずと或る意味で思い上がった結果の反映とも言えるのではないでしょうか、自分が間違っている可能性がゼロとは言い切れないとは考えず。話を統合失調症等の精神障害者に戻すと 問題点を匡そうと助言したり直接的な干渉行動をするのは逆効果になる場合が少なくないらしいので 基本は当事者本人の自由にさせて 当事者の自然治癒力に期待する気長な対処工夫が 止むを得ないように思われます、例えば部屋がゴミ箱で温い助言を聞かなくとも自分で片付けろと命令するのではなく、イキナリきれいきれいにしてやるのでもなく、こちらが工夫して少しでも本人が自由意志で片付ける行動をするように間接的に仕向けるか又は納得ずくでサービス業者を入れるなどが良さそうですが、ゴミ屋敷でも黙って見守り治療優先する次のような判断もありという気もします、、、それは 家事の一つ例えば炊飯を当事者に担当させることなどを手始めに行動療法や其の他の治療法などを試み寛解に近ずけることを優先するという考え方であり やり方は場合によって創意工夫としか言いようがなくマニュアルは無い(統合失調症患者に確定した発症原理は不明であり確定した治療法も令和二年現在まだ無い、、たまたま上手く寛解したという報告は極めて多数発表されているが 有名病院に通っている我が家の当事者はじめ極めて多くの患者に適切な治療法は見つかっていないことでも証明されているように普遍的に適用できる発症原理解明に至っていない)、、何れにしても 当事者の部屋がゴミ箱のままとなるのも止むを得ないと割り切る選択肢もある、勿論 当事者が精神病院へ通院し必要な服薬などをすることは前提ですが、統合失調症は完治しないと考えた方が家族は過剰期待せずに済むし 統合失調症などの精神障害と永く付き合いながら暮らす・共存するしかない可能性が極めて大と家族は考えて精神的困難を凌ぐ努力と心構えをすることが求められます、家族は大変です、でも当事者も大変です 現実に確かに暮らし共に生きるのです。。。。。類推するに 凌ぐ対象は異なるでしょうが これは精神障害者が居ない家族でも家族生活がある限り基本的には似た構図が生ずる場合ありではないかとは思いますが。こうした凌ぎ主体の対処には反論される方も多いかもしれません。
過ち誤り失敗駄目多く いいかげんでも まっいいか 駄目間違い多くとも 兎に角 生きる 人も動物 野垂れ死ぬまで生きる事を受け入れたい
正しいことが実は間違いだったという例は昔から繰り返されているにも拘わらず 自分の主張は絶対正しいと言い合い頑として譲らない人々が現在の世界にも少なくない。激しく闘うもありだが、まあまあまあまあ 妥協いい加減も悪くないと思っています。 現状維持で成行きを見守りもあり、 日月を経て今の大問題が どうでも良い些末な問題になっているかも知れないなどと妄想しております。
自分が赦されているかも知れないのに 他人は赦さないというのもどうか と思いを致す方が 良い未来が拓けるような気がする。
みんな仲間だよ 助けてくれなくとも助けてやれなくとも 無視されても拒否されても 意地悪されても苦しめられても 侮辱否定とは闘うが 嫌いでも嫌われても喧嘩していても わかれても 同じ時代の空気を吸っている なかま 楽しいなかまあり楽しくないなかまあり元気ななかまあり落ち込んでいるなかまあり まだ知らないなかまも
解決しないかも知れない困難にも向き合い 困難を凌ぐ力を増そう なかまは居るよ
才能を開花させ賞賛されることを誰しも望むし 其れは最強人生だと思うが 思い叶わず駄目多くとも普通に最低限でも生きることが出来れば最善人生ではないだろうか 市の広報誌見てると公務活動支援活動仕事育児家事芸事運動競技趣味ボランティア参加関心共有団体参加近所自治会世間付き合い勿論親戚友達付き合いも などなど皆さんあれもこれもと活動されている 活動しなければ取り残される??私を含めて取り残されている人は少なくないのではないか???頑張るもあり頑張らないもあり無理なく活動したく思う。 何かやる気が湧いたら為すもよし、やる気が出なければ無為もよしで どうだろうか 他人であれ自分であれ何らかの事情で何も為さない一生を過ごすことになっても其れは其れで受け容れたく思います。周囲がトヤカク言わない方が概ね善さそうです。
著名人や才能を開花させた方々は少数で 庶民あるいは 自分に出来る事やら家事やら仕事やらを含め衣食住生活を普通にこなして毎日を確かに生きている方々が大多数というのが世間の構造で有り大事なところだと思っています。著名人や出来る人や指導者によって一時的には大きな影響を受けるが 長期的大局的には庶民が世間の流れを形成していると考えています。 ただ無事に生きているだけでは詰まらないという欲張りな方々も多数居られ 人生の充実を図って 試行錯誤努力しておられ 其れには敬意を表します。それでも 特別なこともせず 悪戦苦闘しつつも ただ毎日をシッカリ生き抜いている最大多数派の庶民こそが世間の趨勢を決定ずけていると考えています。私も 好きなことを見つけ出来ることを見つけて 毎日をシッカリ暮らし生きるべく心掛けていますが、乱れが多く優先順位を守れず なかなか思い通りになっていません。
欲張り過ぎず 一所懸命 地道にこつこつ 普通に生きる そうしていて <何もかも駄目な事態に転げていても 兎に角 楽しみを好きを出来ることを見つけ生きる>此れは24年間難病と闘った亡き家内が最後の3年間寝た切りになり俺が介護していた時に感じた家内の最後の境地というか行動であったと思っています。。俺も成れるかな。
物事を 精一杯やり過ぎ派と 余力を残し止める派 に分けると 以前の俺は前者だったが 今の俺は後者を推す 精一杯はありかもしれないが やり過ぎでは潰れる可能性高いのではないか燃え尽き症候群の虞 物足りない方が継続できるのではないか と思う次第です。。ハードルを下げ加減 適度 適切 中庸 いい加減さじ加減 これがなかなか難しい。
人類が知っている物事は有限なのに未知の物事は無限に存在する此の世界 AI活用などして飛躍的に既知の領域拡大中だから人類は前進しているとは言えるが 有限値を無限大で割ると限りなくゼロ(∞より2の∞乗はより大きい無限大であるなどと高位同位低位の無限大や無限小や振動不確定値を考察されている方も居られるようですが 一般人の私などは拡大縮小のスピード感は理解しても極限値に至る事が出来ないのが無限などと理解する程度ですが) 知らない物事だらけ みんなが知ってる事は沢山あるのに想定外の物事が多発し此れまでも学者論客でも来年起こる最も重要な事象を予測できなかったし従来の常識の間違いも時々発表される。赤子のごとく 知らない物事だらけ の中で 無我夢中で暮らす一生を甘受して謙虚に生きるもよし ではないかと思います。。16世紀までの世界では太陽が地球の周りを廻っていることが正解とされ誰もが其の論に従って問題なく生活していた,だが其の正解は誤りだった、21世紀の現在常識とされ正解とされている物事が数多有るが其れに従って問題なく生活出来ているからと言って現在の正解が将来も正解と認められ続ける保証はない。世間や自分が常識正解と考え信じている物事が 或いは誤りであるかも知れないという懸念を必ず少しは念頭に置くことで 思い上がりを抑え謙虚であることが出来るような気がします。理想と信じていた事柄が実現した結果は酷い代物だったという可能性を常に懸念し考察simulationする努力が望まれます。
杉山晃先生の最後の講義 を観て 人類の知的好奇心の旅は永遠に続くと思いました。今やCPUの進化などの結果 この世界のことは遠からず全て解明できて人間とAIで何でも出来るという雰囲気が世界を覆っているように感じられますが、実は これまでの常識の訂正と新発見は猛烈に進むかもしれませんが 全て解明できる場面は永遠に訪れず この世界は複雑怪奇なりと思い知らされることになるのではないかと私は考えております。。先生によると 真空の中に物質から出来ている星が浮かんでいるというのが昔の宇宙観だったが重力的に観ると全宇宙に浮かんでいる星は全部合計しても2割しかなく8割は星ではない暗黒物質(物質ではなく直接的に観測できない)であるという。。私たちは真空以外のものを物質と呼び大昔は原子で説明できたとし その後は陽子中性子電子で説明できたとし それに行き詰まり中間子その他の微粒子を次々に発見して理解してきたが 解明は終わりを迎えるどころか 解明すべき事柄が激増しているように見える、一言でいうと 収拾がつかないように見えます。それでも真理追求解明継続は大切であり私は声援を送る立ち位置ですが。。。
いろいろ仮説あり ビッグバン ビッグクランチ ビッグリップ 。。。。空間は前にも後ろにも進める一方で時間は前にしか進めないことは常識だが 虚数時間軸なども考えると時間も後ろに進む理屈も考えられそうで そうすると 宇宙の始まり(時刻ゼロ)の前が有ることになるので 世界の物語がエンドレスになる。
【自分が間違っているかも知れない】を前提に謙虚に、 私は理に則るという意味で無理なく生活し 創造力を培い三人とは言わず文殊の知恵を借り 好きなこと出来ることを見付け出して実行しヒトの助けを借りながら自立的に生きたいと思って努力しています。
***未知への挑戦***このような謙虚を前提にした上でなら あり得ない行動をする方々や 未知の分野の研究に開拓に危険な冒険に 果敢に無謀に挑戦する方々を応援致します。
世界の物事を 必然 因果律で理解するか 偶然 確率的に理解するか 設計製造なら前者を 天気予報なら後者を それぞれ軸にして理解し行動することが多いように思う。物事は 論理だけでは理解しきれず また偶然事象にも視野を広げれば要因やその結果と考えられる事柄も含まれていると考えています。大昔は偶然で神頼みだった事が 今は要因データ遣い理詰めに解析し結果を高い確率で予測できるものもあると理解しています。。ただし解析出来ていない物事が無限に多くあることに変わりはないことを承知しておくことは大切と考えます。
出産育児や教育や互助や学術研究や公平公正行政の核心部分に市場原理や株式会社組織や経済効率性評価は不適切であるのではないかと考えるようになりました。市場原理や株式会社組織では余り長くない期間に投下資本に対する収益を求めますが 先に掲げた分野では 利益はおろか投下資本の回収も可能とは限りませんし もし回収出来るとしても数十年後になることが珍しくありません。そもそも 民間では云々なる殺し文句でこの分野の非効率を批判する方々は 株式会社など資本主義市場原理の仕組みが社会のあやゆる分野に適切な仕組みであると信じておられるように見受けられます。しかし 当の批判する方々御自身が利益があるから子供を持つのでしょうか? ご家族内における出産育児や教育を損得勘定して決めているのでしょうか、損得勘定していたならお子様が独立なさるまでに幾らの損得があったのでしょうか?あるいは御自身が御子様の世話を受ける年齢に達した時点までの線特勘定は?孫も計算に入れると??、、、少なからぬ行政などの分野たとえば警察官や消防士などは全く異なる価値基準で必要人員や予算を決定する必要があると考えられます。
人類がどうして地球上に存在出来ているのか本当の理由は分かっていないようだ。人間がどうして考えることを出来るのか本当の理由は分かっていないようだ。
今現在 常識だとか正しいとか善だとか されていること が将来において誤りとされる可能性がある、逆に 非難されていることが将来において正しいと見直されることもあるかもしれない。思うに マスコミその他で かくあるべし とか 斯斯然然と断言される方が居られるが 如何に根拠があっても いかなる場合でも断定するのは思い上がりを含めた遣り過ぎではないでしょうか。神ならぬ人間の把握している真実は 無謬であるとは断定できないのではないでしょうか。断定しないと説得力に欠ける御気持ちは理解致します。むかし 貧乏人は麦を食え と言って池田勇人は野党やマスコミから非難轟轟だったが 60年以上経た今では 美味しさ面ではともかく健康面で 白米より優れているし便秘に苦しむ可能性も激減することが理解されて 見直されている。当時でも知っている人は知っていたらしいが 大きな声の方が世にはばかった((明治時代海軍は麦飯が脚気に有効と発見し実践したが其の解釈には誤解があった、そこで陸軍軍医の森鴎外等により麦飯導入は否定されて陸軍は白米食を続けた結果として陸軍は何万人もの脚気死者を出した、この重大事態に森鴎外は責任を取る一方で脚気原因究明調査会を立ち上げたことは評価出来る、そして米糠が脚気に有効と判明した。それは後年のビタミンB1発見につながる、その理由なら麦飯も有効なのだが当初は誤った解釈をして無効としたために無駄に陸軍兵士を多数死なせてしまった、正しいことが誤りとされている例は現在も少なからず潜在していると考えられます))。此のようなことを考え合わせると 期待外れとか 混乱間違ったとか 困難や問題が次々にとか 思うようにならない等々で 腹立てるのは 無謬指向強過ぎが要因と思われます。怒ることを止めて もう少し甘く緩く温く さじ加減いい加減を指向する方が良さそうというか止むを得ないと思われます、と言うか 腹立てながら完璧にと頑張っても 状況は歴史的総体的には余り早急に思い通りにはならないような気がしています。
長い一生で 過ちを犯したことがないという方は多いと思われますが 過ちを犯したことに気ずいていないだけかも知れない可能性にも思いを致すと良いような気がします。気ずいていない過ちも赦して頂いて生きていると考えて 謙虚になると佳いことがあるかも等々を思っています。兎に角 正直に優しく みんな生き抜きましょう。
★★
ひとに迷惑を掛けたくないとは誰しも思っていると考えられますが 殊更に迷惑を掛けないようにと考え過ぎるのは止めた方が善いと思っております、軽く普通に考えて問題なしと思えば其の行動を素直に為せば善しと思います。。そもそも 自分の行為が他の人に 如何なる影響を与えたかとか迷惑になったかとかは 神ならぬ身の知る由もなし、しかるに こうすれば迷惑ではないはずと判断できると考えているなら思い上がりではないかと考えております。言い換えれば 認識していようがいまいが 誰もが身内や他人に迷惑を無数にかけながら生きていると考えられます、、、そうした自分を受け止めてくれている世間に感謝しつつ毎日を生きたく存じます。謙虚に。。。。、、。例えば御礼として銘茶を贈った場合に 頂いた方が頂き物の銘茶が多過ぎて悩んでいたなら 結果として迷惑をかけたことになるが 送り主は自己満足していると推測されます。例えば来客に高級ケーキを出して 遠慮する相手に しつこく勧めて食していただき自己満足している主人を想定すると その来客が実は糖尿病を悪化させていて制限が必要なのだが 何かと世話になっている此の主人に遠慮してハッキリ断れずに食してしまった場合は 此の主人は迷惑を掛けたのだが 気付かずに人生を終えるであろうし、 私は人を喜ばせることはしたが ひとに迷惑を掛けたことは無いと語るであろう。勿論 止めてと言われても止めないとか 迷惑行為と知っていて遣るなどはもはや犯罪行為であるから 其の様な酷いレベルの迷惑を ここで論じている分けではない。
疲れて眠っている人に そっと毛布をかける 優しい行為をすれば自分も心安らかになれそう。単に頑張って旨く遣ったが疲れた~と言うこともあり 分かってるつもりで一所懸命やって間違い失敗し迷い困り疲れた~ という場合もあると思う。
***優劣*幸不幸*** 人間全体一個として 優か劣か と 幸福か不幸か は考えないことにしている 先ず優劣だが 部分であるところの学業の優劣やスポーツの優劣(もっともルールを変えると優勝者が勝てなくなること有之、得手不得手もルール次第ですが)などは考えたり競って決めることが出来るし頑張る原動力になる利点もあるが 人間全体個人の優劣は考えても決められない。 例えばノーベル賞受賞者は優で そうでない個人は劣であると定義したら皆さん納得するのだろうか、それこそ優生思想に陥り、優とされた個人のみが多数の女性に子を産ませることで人類が益々優秀になるという優生思想に陥る可能性が高まる。 無理矢理劣等人間を線引きする優生思想を極端に徹底して実行したのはナチス政権だが 他の諸国世界中がダーウィンに触発された優生思想にかなり染まっていたのであり1975年までのスウェーデンや1996年までの日本は法制定して障害者などを劣等人間と決めつけて断種したと最近知った、優生思想に影響されていた多数の国民は賛成か黙認をしたが近年になって反省している。 遡って 優生思想に支配されたドイツ医学界などの後押しがあって1939年ヒトラーは劣等人間とされた自国民障害者などを安楽死させる権限を与える命令書にサインした まもなく実行本部が出来て 全国の病院から集められたドイツ人とオーストリア人の障害者個々人の調査票を医師が見て 生きる価値がない障害者であると判定した者には✙マークを調査票に記入する ✙マークされた障害者はBernburgの精神障害者安楽死施設のガス室あるいは別の場所の安楽死施設に送られて 本人の同意を得ないまま安楽死させていた、事実上の虐殺が執行されたのである ヒトラーが命令書を撤回した1941年8月までに障害者など70,273名がこの犠牲となったとの情報あり、 この時期から劣等人種と断定していたユダヤ人などに対する絶滅作戦が始まり 障害者の安楽死用途だったガス室をユダヤ人絶滅用途に転用したが それだけでは足りず 他にも新設して ユダヤ人数百万人以上を1945年敗戦までに虐殺したと言われる 同時進行で実はドイツ人とオーストリア人の障害者安楽死実行本部も引き続き事実上機能していて薬剤などで1945年敗戦までに推定20万人を家族や本人の不同意のまま安楽死させていたと言われる、こうすればドイツ民族はより優等な民族に進化できると信じていたらしい。 このナチス政権の優生思想を批判する人でも わたしは優等あいつは劣等と考えることがあるならば それは不毛な優生思想であると思う、 わたしは人種や個人としての人間の優劣は考えないことにしている。 次に 幸福であるか否かだが 似た境遇でも考え方次第で幸不幸が逆転変転する 毎日朝から晩まで働き詰めで疲れて不幸だと考える人がいる一方で 毎日朝から晩まで働き大変だが安定した収入が得られて幸せだと考える人もいる わたしは幸不幸は考えないことにしている その代わり そのエネルギーを使って 無理なく現実の生活の質を充実させることを 毎日しっかり暮らし生き切ることを考えている。
!!!日日しっかり生きる!!! 人それぞれとは思うが 現実の生活の質充実とは 先ずは健康と衣食住 次ぎに趣味個人的つきあい自治会つきあい社会貢献などなど毎日を確実に暮らすこと勿論仕事を確実にこなして収入確保前提ですが、 無理なく 好きを見つけ出来ること見定めて行動する、確り生きる。 キチンと出来ないならやめろと言われても能力の範囲でやらせて下さい程度の軽い取り組みで良いと思っているし 俺はそんなに頑張れない。頑張っても良いが 突然燃え尽きないようにしたい。遠大な目標に邁進することは素晴らしいが 其れ以外にも いろいろな素晴らしい人生が有ると思っています。兎に角 私としては 幸福をネライとしたり 他人に優越することをネライとして生きる生き方でなく 余計なことを悩まず 日日しっかり生きることをネライとする生き方を善しと考えております。
相撲の勝敗は決められるが 人間一個や人生の優劣勝敗比較は出来ないと考えています。有名人になったから勝ち、大金持ちになったから優等、家族親族の尊敬を一身に受けているから勝ち、など判定基準を設けて比較決定は出来るが 人間全体個人のあらゆる要素を無限に比較することはAI活用しても不可能ではないかと考えます。。勝敗比較表は作れるが (優等)勝ちという比較表も作れるし (劣等)負けという比較表も作れる。主観や先入観念で如何様にも決められるのでは悪用されるのが落ちであると思っています。優等意識も劣等意識も適度に制御出来ている世間一般大多数の方々にとっては全く問題なしと考えますが 私がこの話に拘るのは過度な優等意識や過度な劣等意識を持つ方々が必ずおられるようなので其れ等にどう対処するかという問題がある為です。 人間は 優等意識・優等欲望を強く生来持っているため 其れがよく働けば意欲が増し努力の原動力となるが 悪く働くと 自分の地位手柄家柄高級な暮らしぶり有力知り合いヒケラカシ 威張る 叱る 怒る 私って凄い 見下す 差別 侮辱 自分より劣等人間と見なせる人間探し 思い上がり 上に遜り下り 下に傲慢 など 他人の劣等を見つけて無意識に自分の優等を感じ 自分の優等欲望を満足するという行動に励むようになりがちと考えているからです。逆に劣等意識・劣等感に陥るのも謙虚とは程遠く 優等欲望の裏返しであると考えておりまして 過度に駄目だと落ち込む人は 反転すれば優等意識の権化になる可能性大と考えます。もしも本当に謙虚な考え方が心底にあるならば 如何に努力しても駄目な事態に陥った場合には まあ仕方ないか と一旦は受け止めて 自分に出来る事と周囲に協力して頂けることを見直し 如何にジタバタしても駄目だったなら諦めて 直ぐではなくとも新たな道を進む、ある程度の劣等感に陥るのはやむなしですが、、、過度な劣等感に陥らずなんとか普通に生きる事が出来ると考えます。すぐカア~と頭に血が上る方も その心底に俺が正しいオマエラは俺の言う事を聴けという優等欲望が潜在している結果の精神の興奮と考えます。此の世界は自分の思うようにならない事が何時起こっても不思議ではなく 俺の言うことを聞け とか 何やってんだとか 何でこうなるのとか 出来るはずではなかったかなどと他人や自分を責めたり怒るのは 思い上がりが心底にあり謙虚な心構えを失っている結果であると反省したい。 これらを 書き出すことで 勿論自分に対して 警鐘と反省を促しているのです。
ナチスドイツはユダヤ人を劣等民族と評価して排斥虐殺に走ったので ユダヤ人であるアインシュタインも米国に逃れて助かった。少なくとも理論物理学と言う分野でアインシュタインより一般ドイツ人が優等という評価は出来そうもないのだが。大横綱もマラソン競走では駄目かも。それでも人間の悪癖は優劣を決め付け好きなので 好きな奴は優等種族で 嫌いな奴は劣等種族と評価すること等々は今も将来も折につけ発生すると考えられますから おのおの相互に戒め合いましょう。。
兎に角 人間の価値あるいは人間の優劣判断 と 幸不幸判断 など は魅惑的テーマだが 害ありて益なく不毛な思考に陥ると考えております 不毛な思考は一旦横に置いて<<確実に暮らし生きている>> ただ其れだけで善しとしたい 寝食家事楽しみ為し 稼ぎを為し 毎日を しっかり こなす事は 結構大変です まず私はそうです睡眠も障害起こしてます 確かに生きることが最も大切と信じています。なお 優生思想を触発したといわれるダーウィンの発言として次のようなものがあるらしい、、、<最も強い者が生き残るのではなく 最も賢い者が生き延びるのでもない 唯一生き残ることができるのは変化できる者である> これを優生思想のように決めつけて解釈せず 恐竜が絶滅し人類祖先が生き抜いたように そもそも優劣も宇宙の変転に伴ない条件が変化し逆転変転するものであり現在悪いと思われていることも将来良いと考えられるようになるかもしれない 決めつける考え方こそ改めた方が良いように思う。ヒトは生来 自分が上だと思いたい欲望あるいは誰か自分より劣る人間を見つけたいという欲望あえて名付ければ優生欲望というものを持っているのかも知れない、俺の方が先輩だ、知識が豊富だ、血統がいい、金が有る、速く走れる、喧嘩が強い、俺は正しい(自分が間違っているかも?)、仕事が出来る(誰の協力も無しでも出来てるの??)、皆が知らないことを知っている、、、、逆に、、、アイツは若輩者だ、アイツ間違っている(自分が間違ってるかも?)、貧相、空気が読めない、なぜか皆から嫌われる、うどの大木、チビ、ぶす、白痴美、デブ、欠点だらけ、常識を知らな過ぎる、言葉遣いが変だ、のろま、と貶す、、、etc こんなことを仲間とあるいは自分だけで 取り上げ批判して自分の優生欲望を満足させているように見える人達は少なくないように観える。もし私の頭に其の類の思いが浮かんだ時は 思い上がりが未だあるから謙虚に成ろうと反省したい。
太く繋がるとお互いに重荷になる 頑張り通せれば太く繋がるのも一つの理想かも知れないが 俺は そんなに頑張れない 関心を持ち続け ほそ~くツナガルなかま かすかな繋がり 切れてしまったらつらいが まっいいか
困難な問題と向き合っている当事者や家族に関心を持って居る 其の方々に 必ずしも共感できないが 必ずしも理解できないが 答えはないが 何にも出来ないが 関心を持ったなかまが此処に居るよ 解決しないかも知れない問題になかまとなって一緒に向き合い続けるよ
思い通りにならなくとも 答えが見つからなくとも 現実を受け止めて 好きを出来ることを見つけて暮らし生きる できれば 心穏やかに普通に毎日を大切に。
いい加減も悪くないと思っています いい加減は適当ひいては適切に繋がっている場合も少なくない。一方で厳密さは重要であるとは信じていますが 厳密を追い求めすぎてストレスに押しつぶされる例も少なくない。どちらかと言えば 私は いい加減を許容する人生の方が世間とも優しく付き合えそうな気がしています。
愚痴など聴きたくないと言う方あり でも 愚痴でも気に入らない内容であっても 困難に向き合い困難を凌ごうとしている人の語りには耳を傾け 其の人の気持ちを整理する助けになるように 傾聴したく存じます。自分の場合と内容は異なっていても困難に向き合っている人間という仲間意識によって凌ぐ力を増しているような気がして、ネガティブでなくポジティブ前向きに時には笑う自分を造れる力まで頂けたような気がして、兎にも角にも好きを出来ることを見つけ生きて行く。多くの場合に出来ることは遣るべき事と同じかも知れないと考えています。
語ることは自分の考えを整理する良い機会になると思っていますが 他人に十分には理解してもらえないことを前提にして語るべきと考えています。十分に理解して頂こうとしても 話しがクドクなるだけで 思うような結果は望めないと考えております。それでも 少しでも理解してくれるだけで あるいは 理解しなくとも聴いてくれるだけで 本当に有難いことと考えております、その方は貴重な人生の時間を割いてくれて居るのですから其れだけで感謝です。。
自分の想定外の事が起こる、あっとヘマをする、身近な人が問題行動をするナニヤッテンダ~~、其れ等の度に腹を立てるのは普通だが なかなか思い通りに成らぬのが世間なら 怒るのは後回しにして 気を取り直して次に進もう
産めよ殖やせよ という戦争中のスローガン が批判される 当然である スローガン曰く 成るべく早く結婚しましょう←余計なお世話 曰く 産めよ育てよ国のため←軍国主義推進 曰く 悪い遺伝の無い人を選びましょう←悪名高い優生思想である 、、、、、、しかし 具体的な法律や優生施策は終戦までに作らなかったので 実質的には 単なる我が国の人口増加政策と化し 戦後に人口1億人越えの目標達成の主要因の一つとなり 日本の高度成長期を下支えした。実質的に問題なのは 戦後になって作った優生保護法である。 そこで優生思想を具体化したことであり 遺伝性疾患ハンセン病精神障害者知的障害者などを悪い遺伝と決めつけて 断種したことである。そもそも優れた遺伝子か劣った遺伝子か 優等人間か劣等人間か という判定は不可能である(これまでの項目でも論じていますが)。喩えるなら 太陽と地球とでは 星として どちらが 優等か と問われたら 見解が多岐で 結論出せず みたいな感じです。曰く 地球は恒星である太陽のお陰様になっている惑星だから太陽が優等である 曰く 太陽は莫大なエネルギーを供給しているが ただ其れだけ 地球は 豊かな生態系を生み出した星であるから地球が優等である 曰く 太陽は見上げる存在であるのに地球は足下で踏みつけられる存在であるから太陽が優等で地球は劣等 云々。、、、戦前の人口増加政策のやり方には問題があったと思うが何らかの人口政策は必要と考えています。 私は日本人の人口が減少傾向を脱して緩やかな増加傾向になることが望ましいと感じています、何時の日か多くの方々がそう考えるようになるような気がしています。
学者評論家文化人著名人など社会的影響力がある方々がマスコミや書物を通じて語る なるほど納得 なるほど しかし断定する論調が多い 古来より絶対正しかった天動説が実は誤りだったと聴いた人々が驚いたように 神ならぬ人間の予測洞察能力総合的判断能力は不完全であると思われることに加えて 地球も宇宙も変化する影響でこれまで前提条件にできたことが変わってしまうかもしれない例えば今問題になっている温暖化予測が寒冷化予測に逆転するかも知れない、当分有り得ないでしょうが。 思考考察を発言発信するに際して あるいは 批判する側と批判される側にわかれ論戦するに際して 自分の方が間違っているかも知れないという謙虚な考えを内包して発信をお願いします 俺が絶対に正しいと自信に満ち断定する物言いをする方には 頼もしさと同時に危うさを感じます。
未知や誤解に加えて 人には 錯覚 という伏兵も忍び寄る。確かに見た 確かに聞いた だが其れは錯覚だったとか、実は変化していたのに同一と認識していたとか 手品師マジシャン 詐欺師 などは錯覚を巧みに利用している。 深井戸水が真夏に冷たくて 厳冬に温かいというような錯覚なら問題はないと思いますが。
表現はむずかしい 其の表現を批判しようと粗探しすれば必ず綻びは見つかると思う 分り易く端的に表現すると正確性は損なわれる 正確性を重視して表現すると理解することが困難になる その間をとり 適度に適切に工夫して表現することが実際に出来ることだろうが 何を言っても為しても八方美人は不可なので批判されることはやむを得ない 例えば TVにて 装置を誤差無く設置することが出来たと解説していた 普通はご苦労さまです で終わり。 だが 批判すれば 誤差無く設置はできない、誤差1mmか0.01mmか0.0001mmかという精度の差はあるが正確性を重視すると誤差ゼロはあり得ないとなります、批判して事足りている向きは其れはそれとして 大局的に受け入れ出来ると達観すれば多少足らざるを補完して理解し受け入れる方が建設的姿勢生産的姿勢を感じます、例えば 建築設備となる大型機械ならば中心線の据え付け精度±2.0mm以内なら合格らしいがそれが±0.2mmに設置することが出来たら【誤差無く設置出来た】と表現することが有っても受け入れたいと思う。
本当か嘘か有力説として 私達が棲む宇宙は138億年前にビッグバンが起こって誕生し 136億年前に生まれた星も観測できたとの情報あり 130億年前に天の川銀河誕生46億年前太陽誕生 45億年前地球誕生し直後に月が誕生 40億年前地球上に海が誕生 39億年前に海に住む単細胞生物誕生 35億年前に光合成をする細胞核を持たない細菌の一種であるシアノバクテリア誕生 20億年前に細胞膜と核を持つ真核生物が誕生し其の細胞核が光合成能力有するものは植物へ進化し光合成能力持たないものは動物へと各々進化し始める 20~15億年前オゾン層の生成開始 19億年前に超大陸ヌーア大陸が出現 15~10億年前に多細胞生物誕生し有性生殖(雌雄)生物も出現 5億4千万年前カンブリア紀が始まり生物の進化多様化が高速進行し節足生物や脊椎動物の原型が誕生 2億5千万年前恐竜や裸子植物出現 2億2500万年前哺乳類誕生 6550万年前に多分巨大隕石の落下で地球環境激変して地球上の生命体の70%が絶滅し当時もっとも優等だった恐竜も絶滅したが人類の原始祖先である哺乳類の一部は生き残った 2000万年前世界初の湖であるバイカル湖が誕生 2万年前日本列島誕生 紀元前900年弥生時代始まる イエスキリスト誕生年(6世紀にそう考えていた)を紀元前1年とし其の翌年を紀元元年とするディオニュシウスが525年に提唱の西暦が現在も使われている、天文学以外では西暦ゼロ年はない 592年飛鳥時代始まる 1543年コペルニクス地動説著書発刊 1603年江戸時代始まる 1867年明治維新開始し1868年10月23日慶応4年9月8日に明治に改元したが慶応4年元日に遡り適用したので 慶応4年元日すなわち1868年1月25日が明治元年元日となり1869年2月10日が明治元年12月29日大晦日となり都合383日という長~い一年が明治元年である(明治5年に太陽太陰暦から西暦に変える際に明治元年に遡り適用したことと明治元年には閏4月があったため13ヶ月であることなどで383日となった) 1903年ライト兄弟が飛行機による飛行成功 20世紀以降に誕生の私達は父親から放出された1~4億個の精子の中から激烈競走を唯一先頭を切って母親の子宮の中の卵子に辿り着き受精して胎児となり母親が痛い思いをして赤子として出産した個体であり父母にとり天からの授かりものです、競走に負けた残りの1億個以上の精子は死滅しています、私達は生き抜いた個体です、無理なく確実に生活し生きたいと存じます 1945年広島長崎原子爆弾投下により1945年8月15日第二次世界大戦日本降伏敗戦した終戦記念日、この翌年に電子計算機誕生ただし総重量27トン倉庫一棟に収納する巨大さながら現在のCPU性能の百万分の一以下の性能と推定されている 1951年に原子力発電開始 1989年インターネット一般開放 2017年現在の日本では結婚する男女が減少し人口も減少中で昭和時代より社会が活気を失いつつあるように感ずる 680万年後までに人類は滅亡するという種の寿命を唱える学者もいる 17億年後まで地球に住めるという説もある 太陽は50億年後に寿命が来る説もある 人類が思いがけず突然滅亡を迎える要因には事欠かない、WEBに以下の滅亡例示あり 恐竜のように巨大隕石落下あれば滅亡する、大規模な生物兵器テロ、大規模な核戦争の勃発、人類を凌駕する遺伝子操作などの人工生物の異常増殖、AIの反乱、世界中交通アクセスが高速化し新型ウィルスが対策確立する前に世界中に一気に蔓延してしまう、地球温暖化と騒いでいるが超長期では現代は氷河期の初期であると言われているので今後地球凍結して人類滅亡あり得る、逆に人類活動過激化し地球温暖化が氷河期進行を上回る場合も気温上昇で危険、大規模火山噴火、人類の生殖機能が異常に低下すれば子供が激減し滅亡に向かう、ある種の藻類やバクテリアが高速異常繁殖して酸素濃度高くなり過ぎても人類は滅亡する、地球軸の変動、過去に何度もあった地磁気逆転が今後起こった時に地球を覆う磁気が無くなる期間があるために太陽風や放射能などが地上に直接降り注ぐようになり生物大量絶滅し人類も例外ではない、宇宙人の侵略、太陽フレアが現状より異常に大規模化するとエックス線やガンマ線が強力に地上に降り注ぎ生物大量滅亡する人類も例外ではない、月が地球から徐々に離れているがいずれ一定距離以上離れて月地球引力バランス崩れ地球が木星に吸い寄せられる説あり、超新星爆発の悪影響、ブラックホールへ地球が吸い込まれてピンポン玉サイズに圧縮されてしまう、太陽がベテルギウス化して地球を飲み込む、etc,,,,,リスクをいろいろと見出す方々がいるのですね。こうなると 我々や数世代後まではこれらのリスク顕在化はないとして その間に 万一に備えて為しうる希望は 天の川銀河の何処かに有るであろう第2の地球への移住計画ですね。昔コロンブスは 風力エネルギーのみで大西洋を渡り 多分1か月半ぐらいで新大陸諸島へ到達したが 第2地球への恒星間航海を想定すると 乗り物は3000人乗り込み光速の10%速度で50~100年以上居住しながら やっと辿り着くことを想定したい、移住先で遺伝的問題を起こす確率をさげてコミュニティが継続可能なように3000人規模を想定した エネルギー源は原子力発電あるいは他の核エネルギ利用となろう 人類が動物にとって危険な火を制御して使いこなして発展したように 宇宙に活路を拓くしかない以上は これからは何としても原子力はじめ核エネルギー制御利用能力を獲得しなければならないと考えます そもそも放射線が飛び交っている宇宙に出てゆくからには放射線遮蔽技術制御技術を身につけなければならず 原子力から逃げ回っている日本などの現状は 火から逃げ回る野生動物に似た構図で見える(最初に火に遭遇した人類の祖先も逃げ回ったことでしょう???)、今は危険で手こずっている原子力あるいは核利用だが逃げずに頑張ってくださいと推進できる能力や立場をお持ちの皆様に懇願したく存じます。自分では手も足も出ませんが、これらをブレークスルーする主要技術の一つだけでもニュースで知る日を楽しみにしています。
自分はどんなに清潔だと思っているのだろうか 汚いと言って他人を誹謗する方を見かけると少しそう思います。自分も 必要以上に手洗いを何回も何回もしていて きせんやみ と揶揄されたことありだが 確かに人体は完全に清潔にはできない代物であるらしい。 口から食堂胃腸経て肛門に至る体内食物経路に棲んでいる微生物は約100兆個と言われている一方で人体の細胞の数は約37兆個とも言われ数字には異論があるようですが棲息微生物の数の方が多い、 一回に排泄するウンコ量の半分は食べかすに非ず大腸菌など腸内微生物の生きているものや死骸であって其の総数は10兆個以上とも推定されている、そのようにウンコは汚いのだが 人体は汚い物を体内に抱えて暮らしているし 其のような微生物と共存しなければ生きてはゆけないことは明確である。この意味で人体は汚いのである 腸内をキレイにしたら多分人間は死にます、キレイな人間は存在しない、循環器系や脳など無菌な内蔵や体の主要内部部位は有りますが 体表面など無菌では上手く機能しきれない部位は多い。逆に考え 腸内細菌含めて微生物類全てを 単にこの世に人間と共存している生き物として動植物同様に認めて 汚いものという見方を改める方が この世を客観的に観る望ましい態度ではないかとも思えます。この中には 勿論 人間の敵である微生物類も存在するから 其れ等を洗い流したり消毒殺菌することは重要である、しかし 人間に害を為す其れ等の微生物類が居ないかまたは許容値以下に少ない状況にある日常においては 手足を含めた人体の表面の常在菌を殺すような 消毒殺菌や過度の洗浄は 人体に有害であり思わぬ悪影響を及ぼすという意見には注目です。藤田紘一郎博士によると 今の日本の衛生状態は良いので此の日常では石鹸手洗い(此処で言う石鹸とはオソラク純石けんではなく殺菌成分やら保湿成分やら界面活性剤やら香料やら等という化合物入りの一般的ソープの事であろうと思いますが)は やり過ぎであり 油汚れや伝染病懸念などある状況になければ 帰宅時もトイレ後も食事前も 水道水10秒間手洗いで済ますべしとあります、が私は気になった時だけは純石けんで洗うべし派ですが。手の殺菌をするなと言う理由は、、、 手に棲みついている常在菌(表皮ブドウ球菌や黄色ブドウ球菌など10種類以上あり其れが私たちの皮膚の皮脂をエサにして脂肪酸の皮脂膜を作り出す この弱酸性のバリアが皮膚に病原菌が付着するのを防いでいる) この常在菌が手指に病原体が付着することを困難にして感染症から身体を守る第一の砦になっている 病原体の付着が少ない手になっている。これを石鹸洗いや消毒を行うと一回で多分常在菌の90%以上を死滅させるので先程のバリアが失われて病原体が付着しやすくなり 病原体が多く付着した手になってしまうという。見た目ではよりキレイな手だが 病原菌数から見たら汚い手になってしまっている其の汚い手から口へ病原体が運ばれ感染症に罹り易くなるという。何もかも殺菌しキレイキレイにした手が 実は病原体の種類や数という判断基準で観るとキタナイ手になってしまっている、パラドックスの感あり。喩えれば 煮ただけの大豆は容易に腐敗菌が繁殖し腐るが 煮た大豆に納豆菌を着けて納豆にしておけば腐敗菌は容易には近ずけずに腐りにくくなるのと似ています。
手洗いしましょうと2020年初からTVで騒ぎ立てている。これが水道水で洗いましょうという内容なら賛成ですが どうやらそうではなく 石鹼で洗った後にアルコール等で殺菌しましょうという過激なものである。手の皮膚表面に居て外部の病原体が皮膚に棲みつくのを防御してくれる常在菌をも皆殺しにしてしまう洗い方である。これは明確に病原体を保有している人や物に触れた虞有りなどの場合には当然の洗い方だが そうではない日常生活の場合にも推奨するのは善くないと考える。常在菌の出す分泌物で皮膚表面が弱酸性になり結果として病原体が取り付き難くなっているのに 殺菌され常在菌が全滅した皮膚表面は中性となり病原体が取り付きやすくなってしまうのである。キレイキレイにし過ぎて 感染症になりやすい状況を作り出してしまったのである。見た目ではキレイな手が病原菌付着という観点では汚なくなったのである。。
臭いという非難も汚いと騒ぐに似たり。騒ぐ本人も もっと敏感な人からは臭い人と思われているかも。本当に衛生的に危険であれば騒ぐべきだが、単に自分が敏感なだけなら 丸く収める工夫をすべきと思います。そうは申しましたが 臭いやキレイキレイには構って居られなかった戦後に育った人間が キレイキレイが普通の平成の終わり頃に 時代錯誤を言うな と言われそうですね。ただ 私は 人間が心身それぞれに きれいな面も汚い面も 整合性も矛盾も併せ持っている存在であり 体内大腸にウンコを付着させてオスマシしていることも事実なので あまり完璧や潔癖過ぎることを追求しすぎない方が良いのではと申しておるのです。キレイキレイを追求する お方が 仮に 肛門から大腸内に洗浄液を注入して内面付着ウンコを洗浄し大腸菌も殺菌してキレイキレイにしたなら 多分 素の方は 死ぬか瀕死状況に陥るでしょう、人間の外面や消化器は多様な細菌と共存するように出来ていると聞いています、普通に生活している結果としての臭いや汚れは余り潔癖に気にしない方が自然で健康維持にも良いのでなないかと考えております。
好きな花の絵を描き前向きに生きるイラクの小児がんの子ども達に英国デザイナーから送られたTシャツに書かれた言葉 I AM NOT EPHEMERAL は この子供たちは同情される儚い存在ではないよ・好きなこと出来ることをやり しっかりと暮らし前向きに生きている存在だよ と言うような意味合いを込めているらしい。この言葉を 困難に向き合って暮らし生きている共通点ありと言う意味で、 三障がい者当事者および其の家族にも 捧げます。 身体障害者 知的障害者 精神障害者です。さらに 公的に認められていない障がいという困難や 難病という困難や 社会的な様々な困難 其の他の私が知らない困難に向き合っている方々にも 捧げます。。解決されないかも知れない問題に向き合いながら毎日を確かに暮らし生きる、好きを見つけ出来ることを見つけ無理なく困難と共存して生きる皆様に捧げます。
良かれが悪いも有り 願いや思いとは逆の結果になることが少なくないのが此の世界であることは受け止めざるを得ないのかなと思っています。逆行には勿論抵抗するし解決策を全力で懸命に探しますし辛抱も妥協もして何とかしようと頑張ります、困難に絶望し悩むのではなく 困難を凌いで生きて行きたく存じます。ほぼ思い通りになり 願いが叶った人は羨ましい。 少なくない局面で 多分良かれとしたことで悪い結果を招いてしまっている (やった本人は気ずいていないままか、取り返しのつかない後になって気がつく)、、、、勝とう勝たねばの思いが強すぎて負ける、頑張れ頑張れ贔屓の引き倒し、大儲けしたいという思いの行為で大損する、戦争はしたくない・平和を維持しようとズデーデン地方のナチスドイツへの割譲を認めた英仏だったが 却って ナチスドイツの勢力拡大を招き 小さな戦争では済まなくなり 第二次世界大戦に至る結果となったと言われている等々。また 白い杖を突きながら もたもた 駅へ向かって歩いている人が居る 良かれと思い 手を取って先導してあげる だが その人は自分で出来る安全なやり方を ほぼ見つけていて其れを熟練の域に持って行きたいと日々努力しているのだと言う もし そう遠慮せずにと言って当方が先導を続けたならその方の自立を邪魔する事になる→→→良かれとしたことが悪い結果を招く 善意なら何をしても良い分けでは無いのが渡る世間の難しいところ、 萎縮するべきではないと考えますが。
自分が加害者になっていることに気ずいていない。だが 子供時代に悪いことをしていない虫や小動物を殺したり虐めたりしたのも仏教的には加害者であり罪を犯している。牛 豚 魚 を殺して食べているのも生きるため必然とはいえ 加害者である、業者がやらなければアナタ自身がニワトリの首切りを行って食うことになる、農家だった私の子供時代に母親がニワトリの首を切るのを時々見ていた、首の無いニワトリはチョットの間は歩けるのである。また 私が小学5年の時の男性こわもて担任が給食牛乳を飲まない男子生徒に手ずからコップ押しつけて飲ませたことあり生徒は吐き出してしまうが繰り返した、今にして思うに其の生徒は牛乳アレルギーだったかも知れない、ならば其の担任先生は加害者であるが本人も周囲も気ずいていない。、、、様々な局面で 思わぬ切り口で思わぬ形で知らぬ間に 自分も加害者になったり被害者になったり罪人になったり敗者になったりしている可能性は少なくない。 そうした考え方が根底にあるのか?日本では古来より罪人や加害者も供養する風習があったらしい。
ピーポ~ピーポ~ 救急車がどこか遠くを急いでいるようだ <大丈夫 何とかなるよ 何とかしようよ>と 運ばれている方と御家族に遠方からですが声援を送ります。 、、、もう我が家には来ない、 家内が亡くなる前 特に 亡くなる前の5年間ぐらいは救急車に頻繫にお世話になりました。其の節は隊員や関係者の皆々様に大変お世話になりました、ありがとうございました。
怒りが湧くときは自分の思い上がりを疑おうと思う 思うようにならない事ばかりで腹が立つ??神様でも多分思うようにばかりは なっていないのでは ないだろうか?? 他人を観るとき 怒りたい点を探さず 自分が出来ないことを何かしらできるとか 自分が知らないことを何かしら知っているとか 自分に無い何かがあるとか 自分が今は亡き人や世間のお陰様で生かされているとか 案外面白いこの世界に生かされていることは有り難いとか 謙虚に考えていると 怒る気持ちが起こりにくくなるような気がします、勿論これらは自分に対する怒りにも当てはめます。敵や犯罪者を昔は怒りにまかせて車裂きや磔刑や首切りにしたが 現代は怒りをコントロールして処罰している国が多い。だが テレビを見ると 怒る人々が溢れていて もっと穏やかに振る舞う世界にならないかなとも思います。
各個人が喜怒哀楽を日常的全身的に表現することを身に付ければ 其の結果として其の各個人が怒りの増幅やハラスメントに走る可能性は減少するとの仮説があるようです。日常的全身的に表現するとは 嬉しい時はウレシイよワ~イわ~いと全身で喜びを表現し 悲しいときは涙を流して泣くあ~んアンあんオイおいと肩振るわせて泣く などという行動である。実は これはハシタナイとか 男らしくない とか言われ 普通は疎まれている。だが 極端な表現は為しえなくとも 感情表現を押さえ込むのではなく 相当程度泣いたり笑ったりし易い社会や家庭を創れるとストレスも軽減して みんなが今より棲みよく生きやすくなりそうな気がします。
謙虚が身に付けば 如何なる境遇になろうとも確かな暮らし充実した一生に出来るような気がします。謙虚は謙遜や卑下と似ている一面があるために混同されがちですが 其れ等とはまったく異なる概念です。私が現在理解している謙虚の概念は次ぎに示すようなものです、、、< 自分を肯定し誇りと自信を持ちつつも常に反省しより善しを探し自分を見つめ直し あらゆる物事や人のあらゆる情報を色眼鏡無しで受け止め続け 且つ あらゆる情報や物事や人々から何らかを学び続ける立場に一生自分がいると常に心得て 且つ 世界にある多様な価値観と常に整合性を図りつつ自分の価値観を適切に保ち続け見直し続けることを基本とし 其れ等を踏まえた素直な心構えや素直な行動態度が謙虚という概念 ではないか >、、と考えております。(結果として自惚れや傲慢とは反対の態度となります)。この謙虚な行動態度の具体例::所信を語るべしと判断すれば語るが でなければ語りより傾聴に努める、子供や立場が下の方々の話しも素直に聴き且つ学ぶ、普段は毅然としているが頭を下げるべきと判断すれば上下関係なく如何なる相手にも素直に頭を下げる(闇雲に腰が低いこととは違う)、解決されないかも知れない問題や逆境ふくむ困難な事態にも向き合い続け平常心たもち確り生活する(多分充実した一生を送れると思われます)、自分以外の人が先ず良くなるようにと行動することに自らの喜びを見いだすことが出来る、否認されたり貶されたらイキナリ怒るのではなく先ずは自分に直すべき点がないか反省して無ければ相手の誤解を解くなり悪意をなおさせる工夫をする但し単なる侮辱とは断固闘う。順風満帆とか栄誉や煽て上げられたら舞い上がるのではなく自分を見つめ直して受けて善しと判断すれば素直に有難く頂き喜び表現し感謝するが 自分が其の栄誉に相応しくないと判断すれば素直に辞退するタダ其れだけの事である、仕事をすれば報酬を頂くが 報酬あるいは見返りを求めるべきでないと判断される大局的場合では求めないタダ其れだけの事である、不必要に遠慮したり卑下しない全て大局的場合を把握して必要な行動を選択するのみ其の行動を謙虚と言うのは逆です謙虚に判断した結果の行動です闇雲に決まり切った遠慮がちな行動をしているのは謙虚ではありません、周囲からの見え方は同じでも大局的場合を考慮して適切と判断して行動しているなら謙虚です。一見すると見た目が謙遜そっくりでも 大局的場合を俯瞰して判断すれば謙虚であると気付けると考えております。謙遜するとは言いますが謙虚するとは言いません、自己評価と同じレベルの外部評価を受けた場合に 謙虚な人は素直に < 有難うございます > と返すと思われますが 謙遜する人は < いえいえ私は未だそのレベルには達していません > などと卑下するような態度をとると思われます。勿論 自己評価より高い外部評価を受けた場合に 謙虚な人は < いえいえ私は未だそのレベルには達していません > と返すと考えます、謙虚な人は 正しく価値判断して素直に応答すると考えております、謙虚な人は 何方からも常に学び続けることで少しでもより正しい価値判断が出来るように努め それでも未熟者に変わりはなく誰かを下に観ることは一生有り得ない人であると考えております。
使用貸借契約しようと思い調べていて住居表示用語を理解した 例えば大和市の町名は中央林間西五丁目 街区符号は93番 住居番号は戸建なら1号 集合住宅なら1-207号 というようにハイフン枝番号で区分所有宅を表示する しかし 天国ハウス207という方書表示は申請すれば認められるのかどうかは確認していない、また 同一住居表示になっている複数軒の戸建に対してハイフン枝番号にする申請を認めるかも確認していない。ここで 法務局に不動産登記している所在地番と 市町村が管轄している住居表示は全く関係ないから 一方から他方を調べるのは面倒な感じ、所在が判明しても住所は簡単には判明しない?ようだ。なお 簡略化された表記 中央林間西5ー93ー1ー207 のことであるが 市町村役場で殆どの場合に受付けてくれそうであり、郵便物の住所に使って問題なしと思われます。
一人で仕事をしている方は国民年金が多いと思われますが 法人化して且つ厚生年金にする手も有るようです。何方かタレントが俺はそうしてるよとTV番組で語っていました。国民年金よりも多額の負担額を毎年納付し続けなければなりませんが 老後は一般サラリーマン同様に厚生年金の支給を受けられます。ある程度生活費を絞って出せるなら一考の余地ありとも思います。
学校の勉強や試験問題やクイズ番組では正解が一つである事柄を扱っていることが普通であるが、現実世界では正解が複数であったり正解が不明である事柄の方が多いと考えた方が良さそうです。答えが見つからないという困難を凌ぎながら そして時に良い答えを得て喜びながら 人の一生は続いて行くように出来ているのかも知れませんね。
第二次世界大戦中には鬼畜米英と叫んでいた人達が主導権を握り、一転して 敗戦後の日本では欧米は優等で日本は劣等という考え方の人達が主導権を握ったと思う。劣等日本が使ってきた""漢字かな""を止めてローマ字だけにしようというyuryoku iken ga atta tomo kiita koto ari(有力意見があったとも聞いたことあり)。そうした流れで当用漢字も制定され私も其の様に教育を受けたしローマ字教育も受けたが、うちに帰ると戦前の分厚い漢和辞典類しかなかったので或る程度大きくなると其れを利用して調べるという感じになった。そうこうするうちに 何時の間にか 漢字制限も なし崩しとなり ローマ字で文章を書くの?何其れ?という感じに 今はなっている。こういう経験からも 人間優劣は勿論 文化も優等劣等という差別視点を持って 論じたり分析したり評価したりすることは有害無益と考えられるのではないでしょうか。一個の人間や ひとつの文化など 総合的複合的全体である事柄に関しては 差異を論じ比較することは大いにあり得べき有意義なことと思いますが、差異に優劣判断を下すことは不可能なはずであり 主観的に何か基準を作って優劣判断をつけることは問題です。主観的にある基準に基づく優等人間の例示;:a美しいから優等人間 b数学テスト上位から優等人間 c喧嘩に強いから優等人間 d長生きだから優等人間 e裕福だから優等人間 fサッカーが上手いから優等人間gノーベル賞受賞者は優等人間で候補者にもなれない人は其れより劣等人間、、、、 etc、、、 これら基準項目が無限に多くなる問題があるのを強引に無視して これをまとめa+b+c+d+e+f+g+、、、、etc、、、全体で優劣判断すると言ったらアナタは納得するだろうか??まして神になったつもりか???生きる価値が無いから安楽死させましょう(断種も安楽死と同根です、生まれたかも知れない生命体の元を断った)とか生殖能力を奪いましょうと立案した御偉方が最も罪深いが実行させられた医師などの関係者も罪は免れないと思います。
テレビマスコミで完璧や絶対という言葉が気軽につかわれている、それをどうこう言うつもりはないのですが 人間世界に完璧や絶対はないと考えています。@◎の生き神様という言葉もあるのだが 本当の神様と思って使ってはいないと思う。生きたままの人間は 完璧・絶対・神 とは遠い存在であると考えています。完璧に近づきたいと思っている方々も居られるでしょうが、 私は人間は 辻褄が合わず 不完全 相対的 神と異なりいい加減など で良いと言う考え方で気軽に生きたく存じます。
未明の二時頃 カラスが鳴いた オメエも不眠症かあ、、、
20時頃となり暗い中で コンニチワ と近所の奥様が挨拶してくる、、コンニチワと返す。挨拶を交わしてくれる気持ちが嬉しい、私は言葉には こだわらないようにしている。別の奥様は言葉にこだわる、18時頃で未だ明るいのでコンニチワと私が挨拶したらコンバンワと返してこられ コンバンワでいいわよね と おっしゃるので そうですねと返す。私の田舎では子供のころ大人達が こういう夕暮れ時に お晩方(オバンカタ)です と挨拶を交わし、 もっと遅い時刻となりハッキリ暗くなると 御晩です と挨拶を交わしたものですが。
まじめに性教育すれば日本の人口も増加に転ずるのではないかと考えております、独身者も家庭もそれぞれに性生活があります其の性生活の質の向上を充実を推進するのです、将来も誇りを持って日本が存続出来るためには人口の維持あるいは微増が望ましいと考えております,ただし子が出来ない国民や子を望まない国民などがおられ其の様な多様な生き方を尊重する社会であるべきという前提で 独身者も家庭も性生活の質を高め充実させるべく 小学校半ばから正しい知識を提供して必要な訓練指導をすることが望ましいと考えています。。、勿論先生の片手間では悪い結果となる可能性大と考えます、生徒の発達段階に応じて適切な内容を常に研究し続け科学的実験的にシュミレーションし裏付けを得て計画的に 保健福祉事務所などの性教育専門家が各学校を巡回指導することが肝要です、生徒は雑誌耳学問大人達他から非公式ルートで性行為について沢山知っています、生徒達が既に知っているであろう誤っている知識を修正させ正しい知識に導けるだけの豊富で具体的な教育内容が求められると考えます。小学校四年生以上に 徐々に 自分達がどうして生まれてきたか?男性器女性器の構造と特性と性欲が有り性行為が有ることは人類存続のために良い事であり必然的であること だからこそ神様は性行為に快楽を付随させたのではないか、 しかし性行為の結果 子供が生まれ子供を育てる責任も負うこと だから求愛する男性を女性がキッパリ拒否する権利があり拒否する訓練は大切であること(付き合って→ヤメトキマス、、触らせて→ダメ、、とキッパリ撥ねつける実習など)反対に 拒否を敏感に覚り即時求愛行動を止める男こそオトコだという美学を教え まして嫌がる女性に纏わりつく犯罪男にならぬよう 男の取るべき態度の模範例として力では圧倒しているオスがメスの合意を得られずスゴスゴト引き下がる野生動物のオスの行動ビデオなども使い教育し、 性行為を安易に行わないことと性行為の結果責任が男女ともにあることを教え <<子供を作るための性行為は尊い行為であり人類存続に望ましい行為であり男女双方気持ち良く健全な性行為をして子宝に恵まれることは望ましい有りようであること>><<自慰行為は自然な行為であり特に独身者は性行為の準備運動と見なしてよいと考えられますが其れを行う遣り方頻度により男女性交絶頂感覚を障害しないように適時適切な遣り方頻度で行うよう保健所の指導専門員が教育する>>という前向きな意味と知識経験を子供たちに伝授することは国民全員の健全な性生活推進に有効と考えます。現状は 快楽だけのための性行為(此れは否定しません性欲制御ストレス解消の効果もありそうです)や犯罪がらみ性行為などばかりクローズアップされて性行為は何となく悪いことというイメージを受けやすい社会風潮かと思います。 文化人もマスコミも<<子供を作るための性行為は尊い行為であり人類存続に望ましい行為であり 妊娠は男女双方気持ちよく快楽も伴う絶頂性行為である方が妊娠確率は高まるようですが其れは健全な性行為です>>という面を敬遠し無視している。 岩波文庫で訳本を見ると ルイスフロイスは『ヨーロッパ文化と日本文化』第二章女性のその風貌風習について=ヨーロッパでは未婚の女性の最高の栄誉と尊さは貞操であり、またその純潔が犯されない貞潔さである。しかるに 日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても名誉も失わなければ結婚もできる。、、、と記述している。網野善彦『日本の歴史をよみなおす』や赤松啓介『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』 の内容が日本全体に通用するのかに疑問もあるが、明治維新以後の欧米崇拝的傾向の中で処女よし貞潔であれ という概念が日本に定着し さらに敗戦後連合軍進駐で欧米流の性のタブー化が決定的になったように思われる、赤線も廃止になり表面的公式的にはオスマシ日本お行儀よし日本になった。明治男である私の親父はバツイチで再婚し私は生まれたのだが 親父と離婚した女性は隣村の裕福な家に嫁いで幸せに暮らした(当時の親父も地主で裕福な部類だったのだが)、初婚で後妻の私の母親は婦人会活動に熱心でNHKラジオの取材に応じた婦人会のオシャベリが放送されたこともありますが 郡の婦人会(たぶん役員会)で件の女性と出会い挨拶を交わしたと私に語ったことがある。明治時代まで ほとんどの日本人はキリスト教などの影響は受けず 結婚に処女が貴重だとか 貞淑がどうのこうのとか言うのは明治維新以降の西洋からの受け売りの匂いがします。私の小学生時代の同級生で長い通学路多分4Kmぐらいあった途中にある二軒の農家の子供が似ていたが 其の訳は 前の家の母ちゃんが子供が出来ないので 後ろの家の母ちゃんのお腹を借りて子供を産んでもらったからだという、正々堂々とした話であり 誰も貶したり責めたりしない、、当時の私のような子供でも知っている話であり隠し事ではない、、日本人は伝統的にはおおらかな性風俗を維持してきたと考えています。もっとも子供の私には具体的な性行為について当時は全くイメージはできていなかったのであり 本当に理解したのは中学生になって通学友達に男女は交わることを教えられてからではあるが(今思うと 餓鬼の時に俺は牛の種付けに付いていったのだが其れと人間男女の事は頭の中で不思議なことに餓鬼の当時は繋がっていなかったのである)。
出産現場のベッドサイドに幼稚園児や小学生の子供達7人ぐらい(10歳ぐらいの男の子や5歳ぐらいの女の子も見受けられた)を立ち会わせ 陣痛から発露 へその緒切断ふくめて取り上げる一部始終を観させている 出産しているのは子供達のお母さんで 貴方達はこうして産まれてきたのよ と教えたいというお母さんの希望で立ち会わせていると言う。2018年9月6日①NHK地上波デジタル011のTV画面では01:44に取り上げた瞬間が放映され 感心と赤ちゃんを見た喜び歓迎をない交ぜた歓声が子供たちから上がった、お母さんの腕などを撫でてあげている子供もいた。此のお母さんはサーカス団の団長の妻で 生まれた3330gの女の赤ちゃんを含めて6男4女の母になったようである。『サーカスの大家族』という番組の場面である。健康な此のお母さんは出産4日後に退院して赤ちゃんを抱っこして歩いてサーカス団員の前に現れて皆から祝福されていた、もう家事もやるような勢いだ、ただし産後の肥立ちが悪い方もいるので世の女性が皆こんな風に動けるとは言えないが。。。私の感想は 子供たちは 性と出産について十分正しく理解する力を持っている 具体的に正しく行えば子供達に性教育を出来る可能性は十分にあるというものです。各年代に適した性教育を計画的に行うのが望ましいとも思いました。
NHK教育テレビでだいぶ以前に放映したという『男の子はおちんちん、女の子は?女性器をどう呼べばいいのか、1500年の歴史と現在』で出演者の民族学教授鈴鹿千代乃さんは古代の天皇家の娘にホトタタライスケヨリヒメというお方が居られ此のホトは現在のマンコと同じ女性器を指していると言う。ホトは神聖すぎるということで後にヒメタタライスケヨリヒメに改名したぐらいであり、ホトは現在のマンコのように差別的に扱われていない どころか ホトは名前に付けるぐらい親しみ且つ神聖なもの大切なものとして扱われていたのである。ちんちんが言えて、まんこ言えない何故??猥褻を連想をする方はマンコでなくとも連想します、マンコに濡れ衣を着せないでください。誰の責任で決めたか調べて放送禁止用語から まんこ を解放してあげましょう、 タブー反対まんこ差別反対。 神聖まんこ復権運動、、、尊い場所から私達は発露して産まれて来たのです、まんこを興味本位で観るのは或る程度やむを得ないが 己が生まれた尊い場所であることを先ず認識し 神聖まんこを大事に考える社会を取り戻したく存じます。 まんこを情緒あるいは興味本位で捉え偏見を持っている方々は理性的医学的科学的文化的に捉え直して頂きたく存じます。 男女性器を真正面から表現出来てこそ合理的で真面目な性教育が始められる と考えております。
聖書では自慰行為を否定していないようです。聖書の記述要旨は <子をもうけるようにとの親の指示を受けて 兄嫁タマルと性交中にアナンが地に放出した行為を咎められ神に殺された> と言うものですが アナンは生まれる子が兄の子として育てられることを嫌ってそうしたのであり 欧米で其れを根拠に拡大解釈した方々が自慰行為を罪悪視しておられると理解しております。。 その影響を強く受けて今の日本の性思想があるのではないか と考えております。明治より前の昔の日本の大らかな性風俗に戻りましょう。別の旺性復古です。
NHKスペシャル 人体 神秘の巨大ネットワーク第6集 ”生命誕生”見えた母と子ミクロの会話 の再放送を夜更かししていて2018年11月8日午前01時~~視聴した。番組では細胞と細胞がメッセージ交換していることに焦点を当てているように見えましたが、私は 実在の妊婦さんが顔も撮影させ 膨らんだ裸のおなかも撮影させて コメントも述べながら子宮内撮影に協力してくれていることに敬意を表しつつ視聴させて頂きました。子宮内で受精卵が着床し成長してゆき出産する瞬間まで最新機器で撮影している。内臓を撮影している最新技術で技術的には容易ではあっても 撮影させ且つ公開を承諾してくれた彼女の心意気があってこそ実現したと彼女に感謝致します。誰しも 勿論自分も あのように受精卵から成長して此の世に出てきたのだな 母ちゃんの子宮内で 受精卵の時の自分 心臓を作り始めた自分 肝臓を作り始めた自分 次々と内臓をつくりだす自分 最後に脳を作り脳を大きくして行く自分 、、、、、が現実の映像で 目に見えることに感動しました。これを観れば 性行為を単なる興味の対象とする人やイヤラシイなどと考える人も 生命の神秘に感動して あらためて性行為は人類にとって極めて大事であり素直に受け容れるべき行為であると納得するような気がいたします。なお 否定的な情報が氾濫していなかった大昔の方々は性行為を大事なことと素直に受け容れていたことは 例外はあるとしても ほぼ明らかと考えております。
子の発達障害や精神障害に親は無関係では無いどころか大いに責任有りと思うが 親自身もなかなかに思うように生きられていない現実があり、闇中摸索生き甲斐やりがい仕事家庭世間の激変など悩みは尽きないと思います。我が家も そうでしたが 殆どの場合は子の問題行動が手がつけられないレベルに至って初めて保健福祉機関や病院に駆け込み治療開始している、遅きに失していると考えられます。 幼少の子が周囲を困らせる行動を取ったときに いち早く親が気軽に相談出来る公的な専門的機関が有りアドバイスやケアがあると 増え続けるこれらの障害者も減少させられるかも知れない。もっと理想的には 毎年の健康診断の内容を 身体的健康診断だけでなく 精神的健康診断も義務付け 赤ちゃん段階から定期検診していれば発達障害や精神障害などの予備群も早期に発見対処できて 当事者や家族の困難も軽減でき 社会の負担もトータルで少なくできると考えていますが 如何でしょうか。
あの人は 人相が悪いから悪いことしているよ という類の 証拠が明白で無いのに 特定の人をマスコミが非難する論調が多いような気がする、、、日月を経て もし疑いが晴れたらマスコミは公開の場で謝るのであろうか?その頃にはニュース価値無しで無視かな? 勇み足覚悟でなければマスコミはやってらんないよ かな??
真夜中0時になったので4時までテレビ放送は休止します、皆様おやすみなさい!、、、とか、、、、本日はテレビのない夜です、皆様ぐっすり思いっきりオヤスミクダサイ(午後8時から翌朝4時まで休止)。、、、、とか NHKが先頭きって実行したらイライラしている世の中も今より精神的に落ち着き良くなるのではないかな。少なくとも睡眠不足の人は減ると思いますが。TVやNET氾濫している現代の一般的個人は映像や情報のINPUT活動過剰である結果として 其れに対する思索消化活動やOUTPUT活動が相対的に過少になっているのではないかと思っています、これでは精神的に良い分けないと考えます。すぐ出来る対策はINPUT削減です。
<生きてるかぎりは どこまでも 探しつずける 恋ねぐら 傷つき よごれた わたしでも 骨まで 骨まで 骨まで愛して ほしいのよ 優しい言葉にまどわされ この人だけはと信じてる女を何故に泣かすのよ骨まで骨まで骨まで愛して欲しいのよ 何にもいらない欲しくないアナタがあればしあわせよ私の願いはただ一つ骨まで骨まで骨まで愛して欲しいのよ> 歌は殆ど唄わないが当時宴席でのみ これだけは何故か覚えて歌ったが、私は本日までバーブ佐竹の唄だと思い込んでいた。錯覚とはスゴイものだなと思いました、でも 男が女心を唄い始めて且つヒットさせたのはバーブ佐竹であり他の歌手が其の路線に追随したのだから勘違いし易かったのでは?と勝手に納得。。、、、、傷つき汚れた に思いを致していることは当時も今も変わり有りません。もう一つ有りました、夕子の涙も宴席で歌ったことが有ります<小雨にけむる宵でした銀座は西の裏通り肩をぬらして行く僕に傘を黙ってさしかけた長いマツゲの可愛いいコ レモンの匂いのするような夕子に逢ったその日から恋する僕になりました いつも二人で逢っていた並木通りのレストランある日夕子のその頬に銀の涙が光ってた何も訊かずに別れたが あれから何処へ行ったのか夕子の泣いたその日から淋しい僕になりました 飲めぬお酒も飲みました眠れぬ夜もありました夕子のいないあの日から孤独な僕になりました なりました なりました ah~~、、ah~~、、、 >、、、この当時 並木通りの朝日ビルに通いました。
噓をつくなと教育される。常識である。だが 常識を超えて深く考察すると 噓を吐いたことがない人は多分存在しない、秘密を抱えていない人は多分存在しない。自分が置かれた状況によっては噓も秘密も許容され、悪いとは限らない良い場合もあると考えます。極端例ですが独裁国家で生きている市民が本音で批判すれば死刑に処される場合に本音を言わない、此の噓を非難できますか??。秘密はよくないからと言って 自慰行為をしたことがあると開示公表することが正しい行動ですか???。アナタは性欲が昂ぶる瞬間が有りますかと聞かれて確答しない方の多くは多分嘘をついていると言えそうですがニゴシてはいけませんか??? どんなことも場合によるとか例外があるとか が有ると考えられます。
生きる権利があると殺す権利が無いとは同じではなさそうだが 死刑囚にとってはどうでもよいかも。役立たず 社会の厄介者 は非生産的ゆえに 生きる権利がない と今は声高には言われないが 働かざる者食うべからず などと 堂々と言われた時代や障害者を安楽死させた国もあったと記憶している、ただし昔の日本では自己責任追求よりも世間が包み込む感じがあったが。。そもそも駄目だとか非生産的だとか言う対象や価値判断は時代や局面場合により変遷変転逆転する。これらは突き詰めると要因無限で難しい問題点を含んでいて 何もかも分かっていると思い上がった人間でない限り ある人を生きる価値無しと断定できるとは思えない。。現在 命が大切と念仏のように唱えられてはいるが 真に命が大切というなら 人間だけでなく ゴキブリを問答無用で殺すのも矛盾している、ゴキブリによる健康被害はそれほど明確に立証されていない、例外はあるだろうがゴキブリが食卓の食べ残しを舐めたぐらいで人間は病気になってはいないように思う、そもそも生活の場を無菌キレイキレイにし過ぎて発生している健康問題もあると主張する学者論客がいる。共存共栄は民族間などで語られるが 社会において優位にある人と劣位にある人の間でも必要であり 人類と他の種との間でも共存共栄する必要があると考えております。ゴキブリに寛容になれれば あるいは 社会の余裕が広がり度量が広くなれば 非生産的な人は生きる価値なしという意見も もっと減るかも知れないとも考えます。生きる価値がないと自己判断し追い込まれた末に自殺する人も減るかも知れないとも考えます(ここでは遺族に配慮したマイルド表現の自死ではなく 現実を有りの儘に見つめて表現している自殺を用います)。
人生上り坂よし だがキツイよ~無理せずに燃え尽きない程度に頑張りましょう 人生下り坂わるし だが物は考え様ではないでしょうか 楽かも知れません塞翁が馬かも知れません 好きを出来ることを見付けて生きましょう。。。
出来る人よし 出来ない人も溜息やめてCOME ON 好きを出来ることを見つけて生きましょう
心の病 と言わずに 精神障害 と言う方が 適切と思っています、医学界や行政においても其れが多数派かとおもいます。。身体の病に対比すると心の病と言う方が分かり易いことは確かです。しかし 精神の病気の当事者 と 精神の病気かどうか不明ながら精神の障害がある状態の当事者 が多様に存在しているのが精神障害者の実情です。全員をまとめて心の病(精神病)と病で括るのは無理があります。 だが 精神病の方も其のために障害を生じていることが問題であると考えます、そこで精神病か否かを診断するのではなく 障害に焦点を当てて 所定の障害症状などの分類に則り精神的に所定の程度を超えて障害を生じていると診断できた当事者を 精神障害があると認定して対処しているのが実情でであり、やむを得ないと私もおもっています。。身体の病でも 病気とは言えるが原因ほぼ未解明であり治療法も確立していないのに困った症状は明確にある風邪なるものがあるが 其の意味では風邪と精神障害は似ています、ちなみに風邪は病気の名前ではなく症状に付けられた名前であり 統合失調症が所定の精神障害症状に付けられた名前であるのと似ています。。。
人は自分以外を見下ろすような行動をとるように造られている動物かも知れない、、比較するのが良くなかった人生経験やら修行やら謙虚な心構えの獲得やら何やらかにやらを経験してからハジメて 自分以外を見下ろすような行動しないことが自然体で出来るようになるのかな などと妄想しております。。富士山から下界を見下ろして気持ちよくなっている分には天下太平ですが、。中年越えの未婚の子だけしか持たない人と知っていて 私にはマタマタ孫が増えたのよと話しかける人は 一種 自分以外を見下ろすような行動をとっている人と言えそうです。こんなに明確でないが 次に示すような上から目線もあります。<認知症で無茶苦茶されても 感情的にならない介護をしております>とおっしゃる方が居られます。立派な考え方です。介護の在り方としては其の通りだと思う一方で 其の考え方そのものが上から目線の考え方であると思われます。赤ん坊が泣いてグズッテも感情的にならずに育児をしていますと言うのと同じ上から目線になっていると思われます。これが悪いと言っている分けではありません。自分より弱い人や 何らかの面で劣ると思われる人に対した局面で上から目線になってしまうのが普通の人間の性であるなあと時に思わされていると申し上げております。。
世間???社会は今生きている人々が構成している人間世界を理屈っぽく構造的に捉えている言葉であり 世間は今生きている人々だけでなく今は亡き人々もふくめた人間世界を お陰様でと情緒的に捉えている言葉 と言う感覚を持っています。人は世間のお陰様で一生を全うする と思っています。見た目では天涯孤独な個人も 世間のお陰様で生きており 今は亡き人や 未だ見ぬ人 も含めた世間を考えれば 孤独で生きているわけではないと思われます。社会を冷たくばかり捉えずに 世間の温かい一面を見出して生き切りたく存じます。さて 世間を狭く捉えている嫌な使い方が 世間知らず と言う言葉である。世間知らずと非難されても 表面は兎も角 苦手や知らないことや迷惑をお掛けするのはお互い様と内心では開き直り しぶとく生きたく存じます。何が世間知らずと嫌われるかと書き出してみると 常識なし常識外れ TPOわきまえず 迷惑かけまくり 甘やかされて育ってボオーと生きている 敬語丁寧語適切に使えず 世間話し時事問題知らなすぎ 我慢忍耐できず 遅刻ばかり 噓や言い訳が目立つ 相手の立場になって考えてみる能力が無さ過ぎ又は其ういう努力をしない etc.、、、、指摘されたり自覚した問題点は直そうとするのは当然と考えます だが この様な欠点をつぶして 世間知らずと言われなくなろうと あれこれ前もって悩み頑張る気にはなれない、やりたい目標に向け頑張るはありだが。、、、そもそも皆が思っている以上に分からないことだらけの此の世界に生きている人間は完璧とは程遠い 空気読めなくとも ミスしても 過ち誤りしてもアノーソノー Shake it off。。 反省あり ドンマイあり 有識者や先輩や周囲の人々の意見は参考にして努力するが最後は自分で決めたい 世間は大きな懐で何でも有りを受け止めてくれると信じています 結果が悪くとも受け止めてくれると信じています。。。世間には 咎め否定する人間ばかりではなく 何でも 有りの儘に受け止めてくれる人も必ず居ると信じています。受け止めてもらった後を 前後左右上下など多方面考慮し自分が どう行動するか 旨く行くのか は不明ですが 一所懸命辛抱強く生きて行きたく存じます。
困難:: 何でもあり混沌とし多くの人間が苦難問題困難を凌ぐ事態に満ちあふれている世間そして未知を究明し未来を切り開き希望を見つけ皆それぞれがシッカリ暮らし生き抜く世間 世間とは多面的なもののように思います。。。成長期の問題 家族関係の問題 健康問題 身体障害 精神障害 其の他障碍(頭脳がらみ、肉体がらみ、未発達、意思疎通、人間関係、生きにくさ、などなどなど) 経済的問題 仕事趣味遊び学び生き甲斐其の他もろもろ悩み苦しみの種は尽きない 辛きこと多く嬉しいこと少ない又は無い(無いとは言っても美味しい物を食べた瞬間は嬉しい?) 只今現在において 過去からの問題や最近の問題などで困難や苦しみや希望を失うなどに陥っている毎日でも 世間の多面性を信じ コレが駄目ならアレと 出来そうなことは何でも遣ってみようの精神で暮らし 行ける所まで 生き抜く所存です。
考え過ぎずに 毎日をしっかり暮らし生き抜くことを優先したく存じます。誰しも 悩み苦しみ其の他もろもろ 何らかの困難を抱えていると思われますが 解決策が見つからないまま日月のみ過ぎてゆく困難にも逃げられなければ向き合って生きることに成ります。其の際 深く考え過ぎず毎日を確かに暮らし兎にも角にも生き抜く事を第一にしたく存じます。生き甲斐とか 生きる価値があるとか無いとか 優劣とか 幸福か不幸かとか 多様な各自の前提条件が変わると結論が変わるような<<哲学的な感じのテーマ>>は深く考え過ぎずに 寿命まで 毎日をしっかり暮らし生き抜くことを優先したく存じます。。
AIが 世界の全てを解明解決してくれる と期待されている。物凄い威力を発揮するだろうが しかし 全てを と考えるのは 何時もの過剰反応であると考えております。何時もの としたのは 画期的な技術革新があるたびに過剰期待が昔から繰り返されているから。。。蒸気機関然り 原子力然りーこれで世界のエネルギー問題は全て解決すると言うことにはならなかった。ニュートン力学で物質間の力の全てを解明把握することは出来なかった、アインシュタインの相対性理論でもしかり、これらは 各期的な技術革新をもたらし より深くより細かく理論的解明をすることには絶大な貢献をしたが 其の結果 従来は想定していなかった未解明問題が湧いて出て来て 科学者の解明すべき課題はますます激増しつつあると思われます。より多くが解明解決される結果として 解明解決できた項目数より多くの未解明問題未解決項目が浮上してくるという無限地獄(極楽?)が此の世界であるのかも知れないと考えております。
神様は意地悪なのかも知れない。すぐ見える所に宝物を置いてくれない。一生懸命に探さないと宝物は見つからない。宝籤に当たることもあるが 其の様な期待は横に置いといて まちぼうけ の一生ではなく 好きなことを 出来ることを 見つけて毎日を確りと暮らしたいと思います。
人は失敗しながら一生を生きると考えます。一方で 失敗するなと責められます。確かに 同じ失敗を繰り返すのは拙いし 失敗例と似た失敗をしたなら責められるのは当然と考えます。しかし 前例や参考例がない事態が次々に発生するのが人間の一生であると考えておりますので 其れ等の対処を 毎回適切に行える神がかった方は多分存在しないように思われます。過去の方々 現在同時代を生きている方々 共通の困難な事態も多いが 個人個人で異なる人生行路を生きている以上は 個人特有独自の問題や困難があるのは論理上も必然な事態と考えられます。他人の失敗例や成功例をそのまま適用出来るとは限らないのです、参考にはできても自分なりに一捻り必要になるし まったく参考に出来る例が無い場合も少なくないと思っています。そもそも此の世界には 答えが無い問題や答えが分かっていない問題や答えが無数にある問題や矛盾に満ちた問題などが 無数にあると思われます。。。。失敗したぐらいで落ち込んでいる暇は無いと言うか失敗したことすら知らずに歩き続け暮らし生き抜いて人生を終える昔の人も今の人も私もなどと妄想しております。
地殻の大変動などの困難な事態を凌いでいると 突然変異で進化した ということを 地球の生物を古生代含めて研究しているある学者が BSの放送大学で語っていた 徐々に進化するのでなく 大きく突然変異 これが人類の進化の事実のようである。古生代からの地層など研究していて 大きく3回放射線が強まるような大変動があり その度に 大進化したという。。勿論 そのような大変動で 滅び去った種も多い。、、、、話しを身近に戻すと 障がいなどで困難な事態に陥っている方々も 兎に角 凌いでいれば 突然変異とまでは行かなくとも 何か突然 望ましい事態 が見られるかも知れないなどと思案いたします、我が家の当事者も 見守る私も困難を凌ぐ毎日ですが このような情報に接した時は突然変異的 望ましい事態が万に一つぐらい起こるかもと思い 普段は 其の様な情報は忘れて 楽しみや出来ることを探しつつ困難を凌ぎながら暮らしております。。
眼球使用困難症候群は通常の眼科的には異常なしだが 日常生活動作ADL面で困難に陥っている原因不明の難病だという。。当事者は家の奥に引きこもって暮らしているらしい。何やら一部の精神障害者に似ている。容易には改善できないと思われ 当事者も家族も障害を凌いで暮らしていることを理解して見守りたく存じます。
完璧にやる と言う方がおられる。日常的には 何の問題もない言い方ではある。しかし 突き詰めて考える極く少数の人にとっては精神的な困難に陥る言葉でもある。何故ならば 人間である以上は厳密な意味での完璧な行為は出来ないからであり完璧な成果は得られないからであり、もし完璧が出来たなら 其の人間が神になったことを意味するからである。