15生まれ・好きな事を出来る事を見つけ他人の助けを借りて生きる

母のお腹に宿ってから 生まれて 生きて 死ぬ。。。如何なる人生行路を辿ろうとも天命を知り中庸を得て生きたく存じます。ここに私が解釈している<中庸を得て生きる>とは、真実現実を踏まえ喜怒哀楽成功失敗貧富賢愚快楽苦痛善悪生死幸不幸を超越して天命を知り只今現在適切な行動を判断し結果として過去に拘らず極端に走らず平常心を保ち自分の意志に則って生きることです。多分そのように生きると平常心を保って生活出来ることになると考えますが 局面によっては取り乱すことが有っても 其の事だけを以って中庸を得ていないとは考えません。振り子のように極端から極端に変化する外観現象を庸いず 其の様な外観現象の振り子のような変化の中央辺りを見定め庸いて 適切な判断を下し行動しているならば 中庸を得ている と考えるからです。其の時の判断結果行動が極端に走っているならば 中庸を得ていない疑いで見直すことは重要であると思いますが。。なお私流の中庸では現実的に 完璧を求めず 無理せずしかし挑戦し出来る限りの事をやる 結果は好い加減という評価受ける可能性も高い 妥協の産物になっている可能性もあるが 上を見れば限がない下を見下すのは情けないから自分に出来る事を見つけ好きを見つけ日日自分なりの最善を尽くすが善し という考え方を現実行動の前提に置いています。。。言い換えると 多様性を認め突き詰めず優しく甘く大概のことは許容する好い加減な生き方で善しと思っています。どなたかが仰った言葉ですが 死なずに生きているだけで立派です という言葉にすがって生きております。。

5年前に家内は亡くなった、亡くなった日は誕生日と同じ5月9日だった。1992年私が一大決心して独立し家内に心労をかけたために発症したと思われる特発性血小板減少性紫斑病ITPで1993年正月明け家内は大学病院に入院し脾臓摘出したが治らず、以後やむをえずプレドニンを服用し続け副作用で感染症に罹り易くなり敗血症髄膜炎帯状疱疹などになりムーンフェイス薬害性糖尿病骨粗鬆症高脂血症高血圧精神神経症状白内障緑内障腸炎低血糖脳出血心疾患などで苦しみました。毎日数えきれない種類の薬を服用し 家内は杖を突いて頑張っていたが手押し車になったとみている間もなく立てなくなり車椅子生活になり、私が仕事辞めて24時間自宅介護をすることとなった。おむつ替えは看護師さんより私の方が上手いと家内は言っていた、亡くなった日は救急車入院すると盲腸炎破れているもITP患者には手術できないと薬で対処されていたが半日で心肺停止となってしまった。遡って自宅介護していた或る日2014年の秋ごろかと思うが自宅介護ベッドの処で二人で観ていたTVにドコフクカゼが一生懸命に走っている場面が映った。このネーミングを二人で楽しんだ。今思うと家内が亡くなってからもドコフクカゼは走っていたようだ。最近調べたところドコフクカゼ2010年4月19日生まれ牡黒鹿毛日高産JRA平地競走成績重賞なし、特別1着6度他1着1度2着6度3着2度4着以下15度合計30度という成績+JRA以外を2度、2012年5回2013年7回2014年8回2015年6回2016年6回五年間合計32回出走した。変わった馬名を付けられたがドコフクカゼは確かに生きたと思います。家内は子供時代の小川遊び家庭内の諍いに泣き柿の木登ったら枝折れて落下とか勉強頑張った通学バス乗り遅れて追いかけて走ったetc長じては学友と旅行し就職しては自発的にCPU機械語勉強に通い男子社員からナマイキダナと言われ結婚してからは男の子二人を育て上げ編み物手作り洋服刺繡絵手紙など趣味に勤しみ魔法の一本針に挑戦し、 発症後24年難病と衰え行く身体と付き合いながら<好きな事出来ることを見つけ他方ヒトの助けを借りて生きる>という考え方をもって、確かに生きることが出来た と思います。。あるとき脳出血の後しばらく話出来ず手足麻痺していたが話せるようになった、爪切りが自分で出来るようになったときは流石に嬉しがっていた。。。

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 *** 好きな事を見つけ出来ることを探して毎日を確かに生きる其れで人生善しと私は考えております。。世間では幸せか否かが大きな話題になりがちですが 私は幸不幸は考えずに毎日を確かに生き暮らすことが肝要と考えています、哲学的思索をすることも大切、学問や仕事上の考察も大事ですが いずれも影響を受ける要因が無限に多く何れの要因を重視するかで答えが変わってしまう特性を有するような難しいテーマは一旦横にに置いておいて 毎日を確かに暮らし生きることが優先です。幸福は大昔から古今東西で追及されている最大のテーマですが 影響を受ける要因が無限に多く何れの要因を重視するかで答えが変わってしまう特性を有するテーマであると考えられます、よって未だに誰もが納得する結論は出ていません。これぞ幸福と説く賢人も数多居られるようですが 世界中で誰もが納得している<これぞ幸福というもの>があるとは思えません。そのような幻のようなものを追いかけずに(追いかけるのは各自の自由ですが) 地に足を着けた現実の暮らし毎日を確かに生きることに努めること、具体的には好きを見つけ出来ることを探し学び創意工夫しつつ暮らし上手くゆけば喜び失敗すれば反省し妬みや怒る腹の虫は育てず哀しみは共にし楽しみも共にし決して過ぎたる無理はせずに自己実現に努力して毎日を確かに生きること、、、私は この生き方で善しと考えています。生物すべても人間も ぼ~~ッとしているようでも生きるているだけで頑張っていると言えるとも考えています。付け加えるならば いい加減で善し 完璧は求めない 夢計画立案努力などの頑張り良しだが 同時に過ぎたると思えるような無理なく有りの儘でよし 何らかの失敗は誰もがする反省はするが引きずらないで兎にも角にも生きていれば立派であると考えます。***

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 いのち命を紡ぐ、、、私の命もアナタの命も夫々の親から生まれているが その親も祖父祖母から生まれている、、、命は紡がれて連綿と続いてきた、勿論様々な要因で一部の命のリレーは途切れる。。途切れる要因は多様だが 主に事故で死ぬ戦争で死ぬ病気で死ぬ自ら命を絶つ、、、さらに今の日本では結婚しない要因による次世代への命の断絶が急増している。どういう人生を送るかは人それぞれ勝手だが 若い方々には事情の許す限り結婚して 命を紡ぐことを検討して頂きたく存じます。

人の一生では 様々な困難に遭遇します、病気もあり事故も有り仕事の失敗あり人付き合いの失敗あり様々な意味で絶望も有ります、それでも生きてさへ居れば何とかなります 自殺という選択をしてはならないと私は考えています。 良い評価を受ける人生・意味のある人生などという哲学的学者的考え方がありますが 其のような人生の意味付けは 困難の真っ只中に居る個人にとって重荷に過ぎず 行き詰まった局面では 生き抜くこと其れ自体に意味があると考えます。人間の命も虫の命も寿命は違いますが可能な限り頑張って生き抜くべき命という観点では同じと思います。生きる意味は?などと考えず兎にも角にも生きるのです。生まれてきた以上は寿命が尽きるまで生き抜きましょう。眠れない時は無理に眠らず眠くなったら全てを放ったらかして直ぐに寝ましょう。。。

信じることあり信じないことあり 人それぞれ且つ状況によるが 誰もが理屈で納得するような事柄ではない事象が少なくない此の世界において 誰しも何らかの事柄を理屈ではなく信じて生きていると考えられます。宗教は信ずることの代表例だが 宗教以外にも 社会の仕組みとして共産主義が良いと信ずる方々あり資本主義が良いと信ずる方々あり 温室効果ガスと言われるCO2による地球温暖化の進行を信じている(CO2説には科学的に納得できる反論があり其れをを論駁しきれていないので、信じている、と解釈しました)多数の方々が存在する などなど人の数だけ人生の中身だけ多種多様な信じる事柄が有るように思われます。信じていた内容に過ちが有れば改むるに憚ることなかれで修正しつつ やりたい事を出来る事を精一杯励んで自分なりの人生を歩みたく存じます。。  

我が家のベランダと立木との間に糸を張り大きな巣を張っていたジョロウグモが2週間前ぐらいの或る日突然に姿を消した、巣も無くなっていた、ベランダから引っ張ってあった蜘蛛の糸も消えていた。誰かが巣を除去する場所ではなく 我が家には蜘蛛の巣を除去しようなどとする気の利いた人間はいないと知る私は巣でジッと待つ蜘蛛を時々眺めては楽しんでいたのだが。。netなどで調べても良く分からない、 私の想像ですが多分 既に何処かに卵を産み付けた時期は終わりで 自分が吐き出して造った巣の全てを食べながら回収してから何処かの隠れ場所に入って永眠したものと推察しました。兎に角 一生を全うしましたね、世界に一つだけの命が亡くなりましたね。。。。。

生きることは大変だよ 大事だよ 死ぬなよ なるようになるさ 楽しんで生きよう みんなに優しくしようなどと86歳柳瀬嵩氏がNHK第一ラジオの2006年新春インタビューで語っていたが大正生まれで日中戦争に出征し終戦を迎えた経験も踏まえて淡々と語る氏の話には説得力がある。そのような考え方が氏のベースにあって 手のひらを太陽に も アンパンマン も生まれたと理解できる内容の話であった。

人類社会が成長発展し ある一面では大昔の王様以上の生活をしている現代の貧乏人の事ですが経済的に困難に陥っています、苦しんでいます、政治行政や有志が其の解消に取り組んでいます、多分これからも永遠に取り組むことになる課題です。。また永遠に取り組むことになると思われるテーマの一つがハラスメントです。過去の虐め嫌がらせを潰してきた我々の社会は 無くせなかった問題に加えて次々と新種のハラスメントにも直面しています。ハラスメントを無くす社会的取り組みは重要ですが次々に新発生して永遠にハラスメントだけでなく他の問題点や課題も零には出来ないと考えます、更には 常識的に普通の言動に対して圧迫を感じ苛めを感ずる過剰なストレス過敏の方もいます。困難な問題を潰す取り組みは重要ですが 併行してレジリエンスを培う心身教育的取り組み すなわち 困難な状況にもかかわらず しなやかに対応して 生き延びる力 凌ぐ力 レジリエンス を培う取り組みが 社会的にも個人的自分自身にも求められていると考えます。此の世の複雑怪奇さ故に永遠に発生し続ける新たな問題に対して 我々には全力で問題解決を図り続けること と同時に レジリエンスを培い他人の助けを借り好きな事を出来る事を為し特別よりも普通を善しとし現実を見極め考え過ぎず困難を凌ぎながら生きること が求められていると考えます。さらに世間を見渡して言えば ハラスメントに限らず 人生のあらゆる困難問題課題に対して助けを借り好きな事を出来る事を為し特別よりも普通を善しとし現実を見極め考え過ぎず困難を凌ぎながら生きることが大事と考えます。これらの深層には 諦観諦聴に基ずき真実大局を知り其の帰結としての納得ずくの諦めの境地が存在し 多くの日本人は此れを感覚的に身に付けていると思われます。課題解決の努力を放棄するという意味ではなく このような諦観諦聴は前向きに生きることに資すると考えています。

昔の田舎では 少なくとも私の生まれ育った田舎では 自宅で子供を産んだ。私が小学校5年生の時に長兄の嫁である義姉が初産となった。私の母が産婆の資格を持っていたことも有り母の指図で家族だけでお産の面倒を見た。私は産湯に使うお湯を沸かす竃の火を消さぬよう台所の土間の竃に薪や藁をくべる役割だった。囲炉裏のある畳の居間の奥の重い板の引戸の向こうの納戸から 突然 おぎゃあホギャーと赤ちゃんの声が聞こえてきた、、生まれたのだ~~~。。男の子だった。図らずも 甥が生まれる瞬間に立ち会っていたことになる(当時小学生だった私は甥という言葉も知らなかったが)。未明の時間帯だったような気がする。

かつて 二番ではいけないんですか?と国会質問した議員が話題になったが 競争に勝ち残ると褒め称えられ 競争に負けると見向きもされなくなるのは世の常なので ついつい頑張り過ぎて潰れる方も少なくない様に思われます。競争したり 闘争したり 遣れる方は目標を立てて頑張ることに賛成しますが 遣れない方もいます 頑張らない方や更には五体満足だが何もしない方や生きてるだけの方の存在もあり、そもそも先天的後天的障がいを持ち人並みに頑張れない多様な方々も居られます。 如何なる生き方を見かけても そういう人生もありと受け止め あらゆる生き方・人生を肯定的に受け止めたく存じます。自分の価値観と異なれば受け入れがたい認め難いと思うのは当然ですから 受け入れなくとも良いのですが有りの儘を<受け止める>だけはするのが善いと考えます。 受け止めて共生しませんか。死生は背中合わせ 病死事故死だけでなく予測不能な突然死も少なくない此の世界 生きているだけで存在価値ありと私は考えます。自分が此の世界において生かされていることに感謝しております。多様性を<受け止め>て共生しませんか。。

【いい加減の勧め】 人生に山あり谷あり10メートル全力疾走できても100Km全力疾走は出来ないし老化や解決困難な課題に突き当たったり仕事の失敗や怒り挫折落ち込み原因不明の病気や体調不良などなど これ等に対して 生き抜くために必要なことは沢山あります、生命環境太陽空気水食い物 感情制御 論理的思考 行動力 経験 周囲の人々とくに味方 健康な精神と健康な肉体 意欲 経済力 努力などなど、、、しかし特筆すべきは 突き詰める考察と行動の根底に『最後は いい加減 で いいよ』という余裕心を持つことであるように思います。。そもそも人間は突き詰めれば完璧なことはできません、たしかに試験で完璧に100点を取れる人はいますが そういう問題を出されているから100点を取れるのです、全宇宙に存在する星の数は何個ですか??という類の問題を出されたら多分零点でしょう、スポーツであれ学術であれ 真に完璧が出来たら其の方は人間ではなく神です。人間は完全ではなく いい加減で生きるよう創られていると思われます、ただし いい加減を無責任ズボラというネガティブ面ばかりで理解せず むしろ総合的に適当に・調和的に・妥協図りながらも適切に・程よく というようなポジティブ面を理解し 生き抜く頼りとしたく存じます。繰り返しとなりますが 人間には完璧は出来ず 神と比較すれば人間はいい加減な思考力と行動力を駆使して生きていると考えています。其れを悟って 最後は いい加減でいいよ という気持ちを根底に持って余裕心で生きたく存じます。。

かなり前から考えている事があります。其れは 人間は生きているだけで かなり世の中の役に立っているという考え方です。枯れ木も山の賑わいと言うことも大切な視点ですが なによりも生産と消費という二大活動のうちの消費を担っています。ぶらぶらしてるとか 引きこもってるとか 働かない人だなどと非難されている人も 少なくとも消費で世の中に貢献していると胸を張って良いと考えます。そもそも 仕事に従事していると言っても その仕事が社会にどれだけ貢献しているか学問的研究的俯瞰的に調査分析すれば 実は役に立ってない仕事だったとか 世間の足を引っ張っている仕事すら在ると思われます、反対に 時代や社会情勢の変化で 此れまでは ほぼ役に立ってないと思われていた仕事が最近は非常に役に立つ重要な仕事と認識されるようになったと言う例もあるようです。また その昔 中気になって日がな一日布団の上で生きているだけだった御婆さんから孫の私は沢山の多様な昔話を興味本位で聴いたが 自分の成長の糧になったと後年になって思うようになりました、世の中の役に立つという大袈裟なものではないが少なくとも私にとっては得難い経験だったと今では考えております。