2たいがい忘れたが
たいがい忘れたが 橋を渡り磯浜町に入って行くとすぐ右手にその駄菓子屋があった。てんぼさんの店だ。ベーゴマや ぱあ も売っていた。金回りのいい奴に くっついて俺も 行った。みんな が言う通り てんぼさん は ぱあ が強かった。餓鬼どもは 打ち取られた。てんぼさんは片腕で何でも出来た。てんぼさん が何処の戦場で片腕を失ったのか どうやって戻ってきたのか 聞いたことは無い。
たいがい忘れたが さぶ が畑の小径横の肥溜めに 落っこちた日のことは憶えている。食糧難の時代で空き地や小径も せぶり耕したが それでも藁小屋ちかくの肥桶まわりに雑草がのびる余地はあった。誰の土地か分からない空き地なのか道なのかも言えない道みたいな草地があった。喧嘩になり 餓鬼どもを追いかけてきたのだが 餓鬼どもは草地から畑を横切って逃げる さぶ は其の後を たどっただけなのだが。そこには 地面に埋まっている肥桶があった 餓鬼どもは巧みに跨いで走ったが 頭に血が上り熱くなっていた さぶ は用心が足りなかった さぶ は肥桶に落っこちて冷えた。企んだ分けではなかった餓鬼どもは困った。さぶ は体は大きいが動きは少し遅かった 二十歳はとうに超えていたと思うが 今でいう知的障害者であった。
たいがい忘れたが おしゃらくおっか が 俺の顔を見るたびに 「のりぼ~ちゃんは 私?の目の前で 砥石をパランと割った」と かあちゃん等に 枕詞のように言ったことは憶えている。実は ある日 おしゃらくおっか が 石の門から入って来たが 誰も居ないので 裏庭に回ると 洗い場の辺りで俺が砥石で遊んでいたらしい 俺には記憶が無いのだが おしゃらくおっか に言わせると 話しかける間もなく彼女の目の前で 砥石をパランと割ったのだと言う。その時 おしゃらくおっか は 結核の叔母さんと姉ちゃんが暮らしていたインキョという名前の離れに売りに向かおうとして洗い場の横を通ったのかもしれない。この一件ほ 俺が多分三つ位頃のことだが 大きくなっても おしゃらくおっか の話の枕詞なので辟易したが 俺は おしゃらくおっか のことは嫌いではなかった。おしゃらくおっか は 自転車に町で人気の食料品などを積んで 定期的に 農家を訪問販売していた。おしゃれで綺麗なひとである。俺が育った田舎では 女も俺と言ったので おしゃらくおっか も 私?ではなく俺と言ったかもしれないし気取ってワタシと言ったかも知れないが今となっては定かではない。
たいがい忘れたが 砥石を割った頃の 俺は パンツを はいていない。着物を着ていた。だから 用便は楽だった。裏庭の隅にある便所と奥座敷の縁側の奥にある上便所があったが、昼間は裏庭の便所を使っていた。糞尿を溜める大きな壺のような物が地中に埋められていて その上に板が二枚渡してあり またがって下を見ると白いウジ虫どもが沸き返って蠢いているのだが、慣れっこで何とも思わなかったし、蜂の子みたいで食べられるかも?ぐらいに思っていた。この壺にウンコとオシッコが満杯にタマル前に 父ちゃんが門の前の道を越えた所にある下小屋の向いにある大きな下肥桶まで運び移し替えて熟成させておき(これで臭いはほぼ無くなる) 必要な時に畑の作物の畝の間に下肥を注ぎ口つき桶を使って流す。 また下小屋の南三分の一のスペースには牛小屋から運び出した牛の糞尿まみれの藁が積みあげられていて 此れも有機肥料になった。父ちゃんの話では その昔は自前の糞尿では足りず 3里以上離れた町の中の何軒かと約束して定期的に糞尿を引き取りに行き 下肥として溜めて熟成して施肥していたのだが、戦後に化成肥料が入手容易になるとこのような光景はなくなり、他方 町では行政的に糞尿回収が行われるようになったらしい。。このような生活でも俺には回虫はいなかったような気がするが 小学校に上がると念のため虫下しを飲まされたような気がします。今にして思うに もしサナダムシが居たら大騒ぎだが 回虫ぐらいなら どうってことはない、むしろ回虫が居るくらいがアレルギーになりにくい体質になれる可能性大。病原菌や食中毒菌がいる可能性が少なくない状況なら床に落ちたものを食べてはいけないし 殺菌もアチラコチラやるべきですが 清潔が行き渡っている現代で 通常ならば 汚れに過敏にならない方が 逆に健康的な生活を送れるようです、パラドックスです。
たいがい忘れたが 俺の おばあさん は 俺に物心がついた頃には 内庭へ入る木戸の手前の六畳間の布団の上で上半身を起き上がった姿勢で日がな一日過ごしていた、昼間は寝てる事はなく上半身のみ起こして貰って庭を眺めていた。その頃の農家は庭に蓆をしいて穀物を乾燥させたので どの家も広い庭を持っていた。おばあさん が眺めていた庭の先には門があり 道を通る人は皆知り合いであり 会釈をしたので その度に おばあさん もお辞儀をした、話をするには遠すぎる距離なので どちらも通常は無言である、 が人によっては大声で話したり入ってきたりする。このような日常だから 中気になり下半身不随になった おばあさん が布団の上で7年間も元気で過ごせたのかも知れない。かあちゃん は野良から帰ると 真っ先に おばあさん を仰向けにして両脚を持ち上げて 差し込み便器と布オムツの交換をする、 その際 陰部の汚れを拭き取った後で 少し弱った肌に仕上げにペッ ペッ ペッと唾を吐きつけて優しく拭く これが かあちゃんの介護の極意。さっぱりとしたところで おばあさんの上半身を起こし積み上げた布団を背中に押し当て上半身だけ直立に起き上がった姿勢を保ち布団の上の両足に寒くないよう掛け蒲団をのせる。一部始終を見終えた餓鬼の俺はその掛け蒲団に 頭を くっつけるようにして おばあさん から昔話を聞く。追いはぎの話 近所に押し込みが入った話 狐にばかされ 宵闇の中で おう深いおう深い と水の中を歩き回った人の話 我が屋敷の西境界に並んでいる松の大木の上で狸が月に化けた話 などなど。かあちゃん は 家事の一環という感じで普通に淡々と約7年間 あ婆さんの下シモの世話をしていて たとえ陰でも介護がらみで愚痴めいたことを聞いた事が無い 俺も物心ついて以来 其れが当然の日常と思って見ていたので、、、 60年後に 寝たきりになった家内の介護を俺がすることになった時も 下の世話をすることに世間で言うような抵抗はなかった。家内は自分でも臭いがイヤと言って 鼻が利かない人はいいわねと俺をからかったが 鼻の問題よりも 下の世話という家事が一つ増えただけ という感覚の私であった。知らず知らずの中に かあちゃん に教育されていたのかも知れない。ついでに補足すると 血小板減少性紫斑病なる難病を発症した家内が亡くなるまで20年以上やむなく服用し続けたプレドニンの副作用で内蔵や血管などが年々悪化し薬害性糖尿病や狭心症や歩行困難ついには脳出血などになり要支援から要介護それもレベルUPの介護を必要とする身体状態になり 要支援も重くなった或る時期から家内の希望も有り俺が自宅で全面的に介護をすることになったが 俺のオムツ交換は家内には好評で 時々発生した入院期間以外は 俺が付き添いして介護タクシーで毎週のように大学病院に通ったが病室から看護師さんが俺を呼ぶので入ると家内が俺にオムツ交換をしてくれと言うことが屡々あった、場合によると思うが看護師さんより俺の遣り方の方が気に入っていたようだ、オムツ交換に関しては俺も自信を持っていた。。
お馬に乗っておばあさんは嫁入りして来た。沢尻の実家から浜街道を来て かまぐち山を回り込むように進み橋を渡って畑の多い道を 田園地帯に近い うちに到着したと思われる。勿論 俺が見ているはずもないが。おばあさんは 島田の昔の我が家から嫁入りした人の娘だが 島田の我が家の血筋は御一新前のお騒ぎの後に生き残った跡継ぎが婚姻前に流行病で亡くなって途絶えていたので ハトコどうし の結婚になるのだが 本流の血筋であるとして乞われて自分の母の実家である島田へ嫁入りしてきたらしい そういう分けで おばあさんは威張っていたとも聞いたような気がする。あ婆さんが嫁に来て早々に 庭で仕事をしていると ゴトンと納戸辺りで音がする、納戸の引き違い戸は一枚板の重い造りだったので思いがけずツイ音が出てしまったらしい。弟でも訪ねて来たのかと 台所東口より入ってゆくと すれ違うように 見知らぬ男が飛び出して行った。<< どろぼう 泥棒 どろぼう 泥棒 >>と大声上げながら おばあさんは 男の後を追う。男は広大な裏田んぼ方面へ逃げる。大声を聞きつけた村の衆が < 庄屋様んちに泥棒だ > と 農作業を中断して 手に手に 鎌や 鍬をもったまま 集まってきて あとを追う。男は 沖田方面から山に抜けようと考えているようだったという。だが この広大な裏田んぼは その真ん中当たりは今でこそ開拓され沖田として田んぼになっているが 当時は 葦が生えて沼地であり道は沼の中に徐々に消えてゆく有様であった。地元の人間ではないので 其れを知らない泥棒は それでも道なき道を ズブズブと歩いて逃げる。追いついた村の衆の一人デエヤンが <もう諦めたらどうだ>と声をかけると 泥棒も諦めて 捕まったという。気の強い おばあさんの 武勇伝である。この話おれは本人からは聞いていない。
たいがい忘れたが おかた の おみやちゃん のことは憶えている。うちの屋敷と裏田んぼとの間にある屋敷が 通称 おかた と呼ばれる おみやちゃん が居る屋敷である。うちの屋敷の東側にある木戸を出て道を北に取り真っ直ぐ歩く 屋敷の東北隅の欅を左に見ながら さらに真っ直ぐ なお進むと おかた が左側にある そのまま真っ直ぐ進むと裏田んぼ に出る。裏田んぼ は五百町歩を越え千町歩近いと思われる 広々とした田園であり 遙か西の丘の向こうに筑波山が小さくしかし外形だけはハッキリ見えた。俺は とって返して 道に面した おかた の物置に立ち寄る そこには おみやちゃん が住んでいる。何故か おみやちゃん は母屋ではなく 家族とは別に物置の一角に作った部屋に一人暮らしをしていて 餓鬼の俺が 顔を出すと喜んで あなたの家とは他人では無いのよなどと 話しをしてくれた。気安く おみやちゃん と言ったが 俺より一回り以上は年上の妙齢の 可愛いいひとである。この辺りでは嫁に出すときには隣近所総出で振る舞い手伝いして 餓鬼どもも 御相伴に預かれたのだが おみやちゃん は何時の間にか 姿が見えなくなったので 多分 お嫁に行ったのではないように思う、今にして想像するに結核で自宅療養していた可能性あり。
たいがい忘れたが おかた に俺より5つぐらい下の娘がいたのを思い出した。俺も含めて餓鬼どもは 其処ら中の屋敷から屋敷へ子供がいる家の座敷には勝手に上がり庭から庭へワーワ~~走り廻り薄暗くなるまで遊んでいた、テレビは未だ無かった。男女一緒に遊び 遊ぶ子供の数は多かった。娘と言っても未就学少女だが ある時 風呂小屋改築のため風呂桶のみ母屋の軒先の庭に置いて使っていたことがある。俺達が其の庭で遊んでいると 遊びを止め先に母屋に戻った少女が裸になって庭に出てきて木製の風呂に台から跨いで入った。俺が風呂の近くに行っても 気にせず気持ちよさそうに入浴していた。そんなにジロジロ見たわけでは無いが 風呂の出入り時に 可愛いいべべ べっちょ(おまんこ) が見えた。 ま これに限らず 当時は 老若男女 裸を他人に見せることも見ることも 余り気にしてはいなかったが。隣のオヤジは褌一丁で庭をうろつき金玉が見えていたし 二軒隣のオヤジの褌から飛び出した金玉を通り道で世間話していた近所のカアチャン連中が見て <まっ 黒いの~~> と評したと言う話しを耳にしたこともある。
たいがい忘れたが 公民館で行われた予防接種の日のことは憶えている。当時田舎に保育所も幼稚園もなかったので家の内外を適当にうろついて けいこちゃんやたっちゃんやよったかちゃんなどと遊んでいたと思われる 自分のことだが幼いときの記憶は霞んでいる。かあちゃん に手を引かれて 子供の足では やや遠い公民館に着くと 餓鬼どもが 泣き叫んでいる 注射されたのだ。かあちゃん は俺の手をしっかり握っていたが 俺が逃げようという素振りを見せていなかったのかも知れないが 握る手を少し緩めたのではないかと思う。兎に角 俺は かあちゃんの手から スルリと 抜けて 家の方に向かって一目散に走った。かあちゃん が 俺を呼びながら 後を追うが 追いつけるものでは無い。俺は うちの のうば に隠れた 稲藁が大人の背丈より高く直径一間ぐらい円柱状に積み上げられ天辺は円錐形 これが沢山あるから 恰好の隠れ場である。かあちゃん は 諦めた。
たいがい忘れたが 前の けいこちゃん が 亡くなった分けは憶えている。たっちゃんと一緒に遊んでいて 落ちた柿を食べたのだ と大人から 聞いた。たっちゃん は助かったが けいこちゃん は 亡くなった。たっちゃんは 小学生に成っていたが けいこちゃんは 未就学児童の俺よりも年下で 遊ぶ相手には成ったが未だ幼く体力が無かった。
たいがい忘れたが じいやん の 穏やかな顔を たまに思い出す。じいやん は とうちゃんの 弟である。じいやん は東京から 新妻のユキ子さんと共に 疎開してきた。俺は その頃は 防空壕の中で生まれたてなので 以下に記した その頃の話は 伝聞である。その頃 東京大空襲があり その前に疎開してきたのか 命からがら疎開してきたのかは聞いていない。ある日 ユキ子さん は <あら~空襲かしら?> と言ったが それは うちの牛が 長~いオナラ をしたのである。たしか 大谷重工業 という会社に勤務していたとのことで 戦後に東京へ戻ってこいと催促されたが戻らなかったらしい。 じいやん は新宅に出た。隣村境の田畑を分けてもらい 隠居を移築してもらい 新宅となった。さかい が なまり さけえ と言えば じいやん の家を意味した。喰うには困らなかったが貧乏だった。俺が話し相手になる餓鬼ぐらいの歳まで育った頃 かあちゃん は <東京に戻れば良かったのに せっかく大学まで出させて貰ったのに> と じいやん について 俺にポツリと語ったことがある。 じいやんとユキ子さんは 男女女男女と五人の子宝に恵まれた。かあちゃん達は ユキ子 と呼んでいたが 戸籍上は ユキ であり ユキ子 ではない と十年ぐらい前に 知った。
たいがい忘れたが ぼうちゃん ドボーン と言う事件が有った昔話 は よく聞かされた。むかし 用水路の水門付近で遊んでいた うちの子供が水の中に落ちた時に 一緒に遊んでいた子供が知らせてきた時の 言葉であるという。幼い子供のドボーンの一言に 大人達は驚いたが ぼうちゃん は助からなかったという。俺は 水に対する 用心深さ を培われた。だが 水門付近以外の田んぼの中の用水路は浅いので 俺は相変わらず 自分なりに判断して 用水路の浅いところや田んぼの端でも他の餓鬼どもと遊んだ。大人達は子供のことより農作業で忙しかった。
たいがい忘れたが かあちゃんが家出した話を 俺が大きくなってから 長兄である あんちゃん から聞かされた。昭和10年頃 あんちゃん小学3年生ぐらい ねえちゃん2歳ぐらい の頃の事件らしい。 きつい おばあさん に耐えられず かあちゃんは家出した もともと嬢ちゃんと呼ばれて育ち女学校を卒業していたので自立しようと考えたのではないか 勤め口には困らなかったのではないかと思う 東京の病院?か何処か?で働き 戻る意思はなかったようだ 産婆(助産師)の資格を取った その証明書額を机上にに置いて記念撮影した写真が残っている、助産院を開業する可能性もあった。 おばあさん は とうちゃんに 再婚を迫ったが とうちゃんは頑として首を縦に振らず そのうちに 同じ集落内の親戚筋が動き おばあさんを説得して かあちゃんの やり方 に文句をつけないという条件をのませた、 かあちゃんは戻ってきた!! あんちゃんは かあちゃん!!と言って喜んで飛びついたが 赤ん坊のとき別れたままだった ねえちゃんは あの人は誰?とおばあさんんに聞いたところ 誰なんだか と おばあさんが答えた という嘘みたいな会話があったとあんちゃんは言っていた、、、近所のかあちゃん連中の中には かあちゃんとおばあさんと どっちが好きなの と幼いねえちゃんを煽りたてる人もいたと あんちゃんは腹を立てていた、、、すっかり 母親代わりの おばあさんに なついていた ねえちゃんは かあちゃん とは その後も 反りが合わず かあちゃんも ねえちゃんを おかず荒しなどと言い 良く言わなかった この すれ違いは 二人に一生つきまとったが 俺も含めて周囲の人間には 如何とも 仕様が無かった。かあちゃんは戻ってから 女男女男と産んだが女二人は幼くして夭折し 次男である(次)あんちゃん と ばっちの馬鹿ぞうである俺が生き残った。 俺がおおきくなってからの話だが ねえちゃんは隣のみどりさんと遊びたかったのに仕事ばかり言いつけられた、かあちゃんにいじめられたと言う、ねえちゃんは次あんちゃんを負ぶって学校へ行かされたとも言ったが 如何に戦時中とはいえ 小学4年生ぐらいで赤ん坊おんぶしたまま教室に入るのを先生が許したのか と俺は思ったが 根ほりん葉ほりん聞いてはいない 兎にも角にも兄弟姉妹のうち4人が終戦後も生き抜いた。
たいがい忘れたが 終戦後まだ俺が未就学児童で 近所の餓鬼ら と遊ぶか 屋敷内を日暮らしうろついていた頃を少し思い出した。とうちゃんとかあちゃんが野良仕事に出る 次男のあんちゃんは学校へ行く 中気のおばあさんは中庭の木戸の前の六畳間の布団の上に半身を起こして石の門の外を遠く眺めながらキセルをふかしている いんきょと称した離れには 結核になり離縁され東京から出戻りの叔母さんと結核になったばかりのねえちゃんが居る 実は当時の俺は 長兄であるあんちゃんの存在を知らなかった この5~6年後にあんちゃんの結核が全快して奥座敷が開放された時 長兄であるあんちゃんに初めて出会って びっくり仰天した。長兄は俺が物心つく前に結核に罹り奥座敷で療養生活していたのだ 俺は物心ついた時には 奥座敷に近ずいてはならないと厳しくしつけられ はなから そういうものだ と身について行動していて 奥座敷の中のことを考えることすら頭に浮かばなかった 洗脳とはこうなることだと今にして思う 確かに 町から医者先生が往診に見えたのだが 俺は ねえちゃんの往診だけに来ていると思っていた、後になってじっくり思い出すと宮崎医師様は石の門から入り庭を通りぬけて木戸を通って奥座敷に縁側から入り長兄を診察後に内庭に出て上便所を迂回して隠居の建物に向かっていたのである、其れを餓鬼の俺は木戸からいきなり隠居の建物に向かったと理解していたのである。。 いんきょ にも行くなと言われていたかも知れないが 多分厳しくなかったとみえて 俺は いんきょには裏庭廻りで 時々というより毎日何回も 顔を出した 沢山あった平凡?などの雑誌読み物の挿絵などを手に取り 何かしゃべって おもて へ戻った。 思えば当時 働く人は2人(父ちゃんと母ちゃん) 働かない人は6人(奥座敷で結核療養中の長兄、その隣の六畳間にいる中気で下半身不随のおばあさん、隠居の建物で結核療養中かつ自炊している叔母と長姉、5歳年上で就学中の次兄そして小学生の餓鬼の俺)という家族だったのだ。だが働きずめの2人が愚痴をいうこともなく 働かない6人が恐縮することもなく みんなが夫々に 今出来ることを普通に確かにやっていた 俺も普通に育った 働く2人は生産者であり消費者でもある 働かない6人は専らの消費者である 70年近く過ぎた今になってみると 生産者兼消費者は理想だが消費があって生産の必要があるから消費専門もありと思うし そもそも【一人一人が生きていることそのこと其れ自体】 が世の中にとってそして其れ以上に其の人自身にとって意味があることなのだと思う、逆に此の世から命が全く亡くなったら此の世に意味を感じないような気がします。
たいがい忘れたが とうちゃんとかあちゃんが野良仕事に出ていて餓鬼の俺が留守番という見かけの日も多かった。( もらい人ですモライニンデス ) と土間の入り口に汚れた軍服姿の男が立つ。心得た俺は自分の勝手な判断で大きな米櫃から生米を枡にすくい取り 男が両手で前に出して持っている袋に入れる 男は頭を下げ立ち去る 感謝の言葉が有ったか無かったか記憶にない 当時の日本はみんな貧しく病人も多く争いや事件も少なくなかった苦難の時代と思われるが みんな 自分なりの好きを見つけ出来ることをやり毎日を地道に生きていたし 幸不幸を考えたり語る人は居なかったように見えたし 【みんな 確かに暮らし生きていた】と四分の三世紀経た今にして思う、、、そういう其の他大勢で日本は成り立っていた。うちのような田舎では アメリカ兵など外人は見かけなかったが マッカーサー進駐軍命令の影響は絶大であり 農地解放させられた とうちゃん は 朝鮮から来ていた使用人キムに衣服を買ってあげた上で帰国させた。以後は小作料も入らず農作業も何もかも自分達だけで遣ることとなり 四苦八苦していたと思う。もっとも 僅かな小作地買い取り金を工面出来なかったり 妙な義理立て??したりで 農地解放の権利行使をしない小作人の方も少し居たことを 俺が大きくなった時に 小作料を納めに来たのを見て知った。うちは戦前から自作農地もそこそこ持っていたので とうちゃん は農地解放させられても病人を多く抱えていても 頑張れたのかも知れない。かあちゃんは 戦前は 婦人会で 産めよ殖やせよ の指導講師役 をやったと言っていて ある時 微妙な秘め事に言及したらしく<オメエあのような事よく言えるよ>と揶揄されたことありと俺が大人になって聞いた、 実は かあちゃん は昔 家出していた時の東京で産婆(助産師)の資格を取得していたので 単なる妊娠指導だけでなく女性ならではの適切な産前産後の適切なアドバイスもできたのではないか。 戦後も 婦人会活動はしていたが 野良仕事 家事 家族病人の介護 と遣ること多く一人で目の回る忙しさだったろうと今の俺は思うが 当時は 愚痴も聞いたことが無く 兎に角 かあちゃんは やるだけという感じで 大変な素振りも見せなかった お陰様で 餓鬼の俺は天下太平で割と自由に育った ただ 皆に抑え込まれて 背中にお灸を据えられた事はあるが。
幸不幸を語ったり考えたりする人は私の周囲あるいは大袈裟に言えば当時の庶民には居なかったように思う。皆 毎日を暮らし生きるのに夢中だった。毎日の確かな暮らしが其処にはあった。衣食住とくに食の確保 そして有るものを自分達で加工し修理して自給自足主体の暮らし、竈に薪や藁などを燃やすために其れを確り確保するなど忙しい。忙しい暮らしの中に細やかな楽しみを見つけ出来ることを見つけて毎日を毎年を生きていた。うちも近所も田畑があり百姓暮らしだったから食には困らなかったが 素直過ぎる人の中には村の言うままに有りっ丈の供出をしてしまい自分の食べる米が足りなくなったという噂話も聞いた。
ねえさん(義姉)は男女男と三人とも 自宅の納戸(表座敷ではない方の6畳間で分厚い板の引き戸から出入りした)で出産した、 かあちゃん が取り上げた。おばあさんは中気だが頭は確りしていたので表の六畳間の布団の上から心配していたと思う。大人達はお湯沸かし。小学校高学年なりかけのガキの俺は台所辺りでうろうろ。突然 ほぎゃあ~~ と納戸の中から 初めて聞く 赤子の鳴き声 、、、かあちゃん が 何をしていたのかは分からない。現在の俺が思うには保育器が無かった時代であり 多分 お腹の中でヌクヌクとしていた赤ちゃんに室温は寒すぎるから体温並みの産湯で赤ちゃんを暖かく保ってやって其れから産衣を着せたのではないか? テレビドラマなどでは単純に産湯で洗うと言うが洗うのではなく【産湯に浸ける】と言うのが正しいと思う。生まれた三人とも 健康で 叔父さんである俺をアンチャンと呼んで育った。
ねえさんに第一子が生まれると 粉ミルクの配給を受け取ることが出来るようになった。1km以上田んぼ道を歩いた先の大串の丘の上に粉ミルクを受け取りに行くのは俺の仕事になった。大人になって知ったのだが UNICEFの支援物資だったのである、日本全国一斉に配給されたと思う、、、あれから65年経った今の私は逆にユニセフマンスリーサポーターとして僅かですが寄付し続けています、実は難病で体が徐々に不自由になった今は亡き家内が此のマンスリーサポーターを始めたのですが私が引き継いでおります。さて 小学校中ごろには親は弁当を造ってくれなくなり というより忙しい親を見かねて自分で遣れることは遣る気になり 自分で弁当箱にご飯を詰めて梅干しと自己流の炒り卵(農家の副業として養鶏で卵を産ませていたが殻が硬くない卵など出来損ないは売れないので俺たちの口に入ったのである)を載せただけの手作り弁当を持参して登校していたが その頃から学校へも粉ミルクが届き 昼飯時に当番の児童が専用バケツで粉ミルクを井戸水で溶いだもの(沸かしたかも?俺は何故か当番経験なし 女子の仕事だったかも)を運び全員に分配した、コッペパンも分配されたので有難かった。ただ今でも忘れられないのは 一人だけこの粉ミルクを飲まない男子がいて 厳しい男の先生に強引に口をこじ開けて飲まされたが吐き出していた光景である、、俺は粉ミルクを美味しいと思っていたので 贅沢な奴だなと見ていたが 今思うに 彼は粉ミルクにアレルギー反応があったのかも知れない。。
うちの牛に種付けするというので 付いていった 2Kmぐらい歩くと雄牛のいる牛舎に到着した。 もお~~と鳴いたかどうか定かではないが うちの牛の後ろ背中に種牛が後ろから乗り上げて嵌まる ややあって離れると 何事も無かったかのように うちの牛は引かれて帰途に就く 俺はその斜め後ろを歩く。何ヶ月後かは憶えていないが うちの牛が出産するという。餓鬼の俺も駆り出された と言うのも 逆子か何かで難産なのである、べっちょから 先ず片足が出たままなので 其処に紐を結わえて引っ張ることになり俺も皆と一緒に紐を引っ張った。やっとの事で 牛の赤ちゃんが出てきた、と同時にぬるぬるどろどろしたモノがドバ~~と溢れ出てきたのにはビックリした。母牛は既に敷き藁の上に横たわっていたように思う。片付けたり 何だかんだしていると見る間に 牛の赤ちゃんが立ち上がろうとして出来ずに倒れた。諦めずに 此れを何度でも繰り返す だんだん上手になって ついに立てたのである。ひょこっ、、、、ヒョコッ、、、ふらつきながらも歩く。凄~~い 人の赤ちゃんと違い こんなに直ぐに歩けるんだ。母牛のオッパイを 頭というか顔というかその辺りでズン、、ズン、、と突きながら オッパイを飲む。,,,,,......,,,,。。。。。◎。何カ月か経った ある日 うちの奥台所手前作業場である広い土間の小縁で とうちゃんと博労が話している と見ている間に 博労が土間に土下座する、、、??、、、。。。其の後 元気に走り回っていて可愛いい目をした うちの子牛は博労と共に何処かへ旅立った。
たいがい忘れたが 正座したとき 足が痺れないこつ とうちゃんに教わった。 左右の親指の上下関係を時々入れ替えるというか差し替えるというか組み替えするのである これなら近くに居る方々から見て もぞもぞ動いている感が無いので 見た目がよい。
たいがい忘れたが しんやの屋敷とほんたくの屋敷の境に沿った湿地帯的小径横に 2坪ぐらいの泉があり春から夏にかけて地下水が湧き出していた。この湧水は泉から溢れ湿地帯的小径を濡らしながら80Mぐらい東に流れて1番目の田んぼ約3畝に入る さらに田んぼから溢れて畑と南に向かう小径の境の溝を60M流れ下り2番目の田んぼ約3畝に入る ここで約1間幅の村道に遮られるが 村道を南方向に横切る小溝で間に合う僅かな水量なので 小溝の上を気にせずに人や牛車が行き交う この時代は自動車は町の近くの県道まで行っても滅多に見かけず まして自動車がこの辺りに来ることはなかったし自転車も余り見かけなかったぐらいだから 小溝の水は滞りなく3番目の田んぼ約4畝に流れ落ちた 先程の村道がT字路分岐して南進し始めた部分にも東へ横切る小溝が切ってある 水は小溝を流れて うちの田んぼ すなわち 4番目の田んぼ約5畝へ入る ここから下流は墓地まで うちの土地である この田んぼの東端は うちの石の門の前に位置するのだが その田んぼの東南隅から再び溢れ出した水は 20坪ぐらいのうちの溜池に入る 石の門の前の溜池である この溜池から さらに流れ出て溝に入りそのまま 東に多分10M行ってまえの屋敷の茂みに当たり方向を変え うちの畑の端を まえの屋敷沿いに多分50M南進し墓地の篠笹やぶに突き当り 東に方向転換して多分50M行って用水路に流れ落ちていた。ちなみに我が家は現在に至るまで”新宅”と言われてきたが 江戸時代に新宅に出たものであり江戸時代に本宅が一時落ちぶれ 健在であった我が家である新宅が庄屋となり其のまま明治維新まで庄屋を続けていたという歴史あり明治になって庄屋制度がなくなって後は郡会議員郡会議長などを務めたと聞く。。
たいがい忘れたが うちの石の門の前の溜池は 南面している石の門を出て下り直ぐに村道を横切って田んぼとわら小屋の間の空き地を南進すると突き当たる位置にあり この溜池の周りは 西側に柿の木 東側あすなろ 手前に笹 向こう側つつじ などという感じになっていて 秋には柿の木に登って柿を喰った、甘柿だった。この溜池は冬でも水が残っていたので 春以降は かえる えびがに ふな どじょう 水すまし などなど いじめる相手には困らなかった。蛇のいる竹藪は この近くではないので この溜池の辺りで蛇に出会うことは少なかった。この辺りでは マムシはいない 青大将だけなので むしろ 彼らが被害者となり 好きな大人に捕まえられて 皮を剥かれて食べられてしまうことが有った。
たいがい忘れたが まちこさん が家出したと大人達が話していた 俺は未就学児であり まちこさん は とうちゃんの叔母さんの嫁ぎ先の跡取りすなわち とうちゃんの いとこ の娘であり 多分 女学校か新制の女子高等学校を卒業してからの出奔と思われるが 東京へ出たのではないか? ということを小耳にしたぐらいで 餓鬼の俺が 口をはさめること ではなかった。大人になってみると 様々な意味で すごく気になる 一件なのだが その後のことは知らない。
たいがい忘れたが 日本が負けて進駐軍が全国に展開したと言っても うちの村のような ど田舎には 来なかった、 うちの縁側近くの座敷には 鬼畜米英などの大見出しの古い雑誌が無造作に転がっていた。俺が大きくなって知ったことだが 敗戦の結果の一つ農地解放で我が家は小作が殆ど無くなり元々自作していた多分2町歩ぐらいの田畑のみで暮らすことになったために使用人も解雇し朝鮮人のキムには背広を買い与えて帰郷させた。我が家では戦前に山を売って田圃を買い増ししたらしいが其れは全くの裏目にでた、敗戦後になると山持は木材需要で潤ったのである。 俺が大きくなり 高校生として 地方の中核都市に電車で通うようになって初めて 進駐していた米軍軍人を見かけた。肌の真っ黒な人もその時に知った。テレビはなく ラジオと新聞が情報源だった。これは俺がもっと大きくなって知ったことだが 村の人々の大きな関心は お米が反当り5俵とれるか6俵採れるようになるかなどの収穫量競争だった。
たいがい忘れたが 日赤病院?に連れて行かれて ちんぽ(おちんちん) に包帯を巻かれて帰ってきたことは憶えている。親からは 無花果の木の下あたりで遊んでいた俺がミミズに小便をかけたから腫れあがったと言われたような気がする。クスリ塗ってくれた看護婦さんから は いい匂いがした。小学校へ上がる前か後かは定かでない。
たいがい忘れたが 正月になると うちの石の門の向こうの溜池の横の畑に朝 とうちゃん が出向く 俺もついて行く とうちゃん は敷物に丸餅と生米を載せて置き やおら <<< からーす カラス から~す カラス >>> と大声で 空に向かって呼び掛ける、そして家に戻る。烏は すぐに寄ってきたりはしない。だが 何れは カラスか何かが食しているようだ。何で??カラスに御馳走与えるのか 聞いたことはない。今となっては答えてくれる人は亡い。聞いてたかも知れない あんちゃん達も亡い。
たいがい忘れたが カラン カラン と鐘を鳴らしながら 相撲取りのように大きいおじさんが 自転車に箱を積んで 門の前を通る 俺は門の前の右側の松の木の木陰の芝生に座って アイスキャンディー舐めたいなあ~ とぼんやりと妄想している 小遣いなど貰えなかったので買うことはできない。突然 自転車が停まり アイスキャンディーが目の前に差し出された、俺はびっくりして立ち上がり受け取った、おじさんが何と言って差し出したのか 俺が何と言って受け取ったのか 記憶にない、生まれて初めてのアイスキャンディーは固く美味かった、だが この出来事を この恩を 親にも誰にも言った記憶がない、 おじさんは 誰からも感謝の言葉を貰っていない。俺が大きくなってから分かったことだが おじさんは其の怪力で秋の収穫後の夜間に納屋の米俵をひょいと持って行くことありと噂されていたが不思議と納屋にカギを掛ける農家も無かったのである、おじさんは農地をあまり持たず 的屋テキヤなどで生計を立てていたのではないかと思う、 町の目抜き通りの角という一等地に在った仕舞屋風わかみや は おじさんのような人達がナナメにツナガリ集う場だったのかもしれない。今更ながらですが おじさん御一統様のご繁栄と おじさんのご冥福をお祈り申し上げます。
たいがい忘れたが ぷり が良ければ百姓でなく勤め人の奥様になれたのに と かあちゃん が俺に言ったことがある。その時の俺は ふ~ん と何も考えずに聴いていたが、60年以上経って思い出してみると、 でも其れなら 俺は此の世に存在していなかったが と今にして思う。
俺は かあちゃんに甘やかされて育った末っ子であるせいか、また早生まれで一年早く就学したせいか、 おくて で 中学一年になって初めて 男と女が交わることを通学友達学友に教えられて知り ビックリ仰天した。しかし 間もなく 自分も性に目覚め 性的空想性器刺激を行うようになったが 自然のことと思っています。聖書で自慰を悪いと教えているという通説は誤解であり 逆縁で娶った兄嫁タマルと性交中にアナンが故意に地に放出して兄の子となる宿命の子を作るのを拒否したことが理由で神に殺されたと書いてあるのであって何処にも単なる自慰行為が悪いとは書かれていない。自分一人の時に自慰放出するのを悪いと聖書には書いていません。其れなのに単に自慰が悪いと解釈するのは拡大解釈そのものです。今の医学でも適度な自慰行為は性能力維持に必要という見解もあります。 此れをせずに 溜め込んで 拒否する女子に襲いかかることこそ最悪の罪であり 猛獣でも雌に拒否されスゴスゴと引き下がる強い雄の姿がTVでも見られる通り動物ですら強姦はしません、 狂っている個体も稀にはいますが。他の動物と異なり 一年中性欲が有り続ける人間の欲望の安全弁として、、勿論過度な自慰行為は悪い結果を招きかねない、過度はいけないが、、、野放しでは過度に陥る男子も出そうである、、先手を打って 性教育の一環として各学校を巡回指導する専門指導員を養成し 積極的に先生片手間でなく専門指導員が各学校を巡回指導する仕組みで 小学四年生以上の保健体育特別授業で男子女子別々に 適切な性教育を巡回指導教育すべきと 思っていますが 如何でしょうか。
中学上級生になったとき 同級生の一人が妙に増せていて 問わず語りに 自分は近く?隣?のオバサンに 嵌めさせられていると俺に言う。彼は喜んで致しているのか 嫌々なのかは ハッキリしなかった。 俺は羨ましいような 切ないような 不思議な感覚で 心の半分では嘘では無いかとも思いながら 別世界の話を聞いていた。同学年生100人未満の田舎の中学校なので 特に親しいわけではなくとも このような話は出た、ボ~と生きてるように見える俺 には話しやすかったのかもしれないが。彼は1回か2回話したきり その話は二度としなかった。
うちの 石の門の前の田んぼ の水源地になっている小さな泉の北側の屋敷は Nさんのうち である。田畑も相当保有していて中堅の上位の農家である。Nさんは オレハ戦争に行って鍛えられた やくざなんか には負けないという利かん気がウリであった。村から町へ行く途中に隣村の一部が挟まっている感じになっているが この村外れに宿兼赤提灯を経営するこの村育ちの親父がいた。村人からは批判されていたが田畑もなく自分の才覚で生きるのは当然の成行きでもあった。批判するヒトばかりではなく 酌する女性を目当てに飲みに通う村人も勿論いた。Nさんも其の一人で 足しげく通った その女性には相当入れ込んでいたらしいとの噂はあった。まだ若々しかった連れ合いの方と高校生の男を頭に男女女女と当時としては人並みの子沢山であった。俺は其の子達とは遊び仲間だったし 学校へ行き帰りにNさんちの畑道や庭を通り抜けることが多かったので たまに Nさんに声をかけられたこともある。そのNさんが 行方不明となり 自転車が 広大な裏田んぼの西の外れの山中の細道辺りで発見されたという。警察の捜索虚しく本人の手掛かりなし。村人の大人達は 酌女である彼の女性の後ろ盾のヤクザ者が犯人と決め付けてひそひそ話したが 彼の自宅である三つ離れた村にあるその家に警察が踏み込んでも証拠が攫めず。其の男の自宅がある村には米軍の射爆場があり 其の中に遺体を埋めたのだろうと村人たちは噂したが 警察は治外法権で入れなかったのか 熱心には捜査しなかったのか迷宮入りとなった。その後 彼のヤクザ者はNさんに貸した金の担保に取った権利証だと称して 田畑の権利証を振りかざして引き渡しを要求してきた。路頭に迷う家族を救うべく村が間に入り家屋敷と多少の田畑は残ったらしく高校を辛うじて卒業した長男が勤め始めて一家は何とか食いつなぐことが出来た。平和な のどかな ど田舎の村でも 終戦後 こういう事件はあった。小学生になっていたとは思うが餓鬼の俺の記憶違いがあればご容赦ください。
昔の田舎の家には鍵は無かった。心張棒は有ったが必ずしも使わなかったように思う。流石に 蔵は錠前で常時施錠した。𠮟られて蔵に放り込まれるのが最大の罰であった。蔵の一階には米俵などがあり、二階には貴重品や書籍や刀剣などが有った。刀剣は勿論 届出して許可を受けていると とうちゃんが言っていた。 敗戦後の日本では明治維新もビックリという欧米優等日本劣等という考え方に逆らえない空気があり漢字ひらがな止めてローマ字を強制しようとか米よりパン食で頭が良くなるとか言う勢力の羽振りが良かったような気がする 其の一環として当用漢字も制定されたらしいが俺は蔵の中の漢字にルビがついた本を読んでいつの間にか当用漢字以外も無意識だが かなり覚えた。江戸時代は土蔵だったらしいが 明治維新になる前の幕末の<お騒ぎ>で書生党に火を入れられて焼けてしまって 居宅も含めて焼け野原のなかの再建では 土蔵とはゆかなかったのかも。当主が幕末に処刑され赦されて戻った跡継ぎも間もなく はやり病で早世し 入り婿18歳が建て主となり 棟梁18歳とのコンビで 茅葺き屋根の居宅などを建てたと聞いた。その棟梁の子孫の工務店に現在の実家も変わらず仕事を依頼していると聞いている。
俺の家から少し離れたところに家がある同じ小学校に通う上級生の女子生徒であるお姉さんのことが思い出される。俺たちは そのお姉さん生徒の後から 数キロメートル先の小学校まで歩く。色白でスラリとしていたような気がする。冬ではないが そのお姉さんは まま 裸足で通う。いま思うと我が家も貧乏だったが もっと貧乏だったのかとは思う。 近所で餓鬼どもが遊ぶときは裸足が普通だったし 庭も道も表面が土であり痛くはなく ガラスや瀬戸物のカケラは落ちていないし貴重な金属片や釘なども落ちていることは殆どの場合考えなくて良かったので 裸足通学に違和感はあまりなかった。小学校では足洗い場が完備していて洗ってそのまま廊下に上がり教室に入る。そもそも廊下も教室も全員が素足で過ごしておりました。校庭では裸足で遊ぶことは普通にあった。
手土産持参で いそいそと かあちゃん は T先生に会いに きちんと和装して出かけていった。次兄は 未熟児だったと 以前かあちゃんから聞いた。体が小さく病気がち勉強も頑張るが成績はわるい。小学上級生か中学生のときに制服のズボンの股の処を たびたび 白く汚していて責められていた、しかし此れは 8~9年後にハッキリ手足が不自由になり歩行困難で困り果てて東京の大病院を受診して 生まれつきか若年性かの糖尿病と診断されて はじめて あの時のは 糖尿がズボンの股の処に付いたのものだ と皆が理解した、東大病院では裸で歩かされ神経の問題と診断されたが遅々として良くならず 親としては何とか成らないかと順天堂大学病院にも行ったところ糖尿病ですインシュリンで良くなりますと診断され喜んだ。すでにシオン学園高校を卒業していた次兄は地元の中小企業に就職していたが前述の状況で辞めていたので、糖尿病治療して肢体自由となって心機一転し日立に就職した、、高度成長期だったので此の経歴でも採用された。出だしの話しは 次兄が農業高校受験に際して T先生に頼んで入れてもらうんだと言って出掛ける かあちゃん を俺が見送った情景である。
たいがい忘れたが 磯前神社方面から内陸の県都を越える辺りまでチンチン電車が走っていた。戦後出来立ての女子高校へ通っていたねえちゃんが未就学の餓鬼の俺を電車で町まで連れて行ってくれたことは覚えている。混んでいて立ちっぱなしだった、周りの乗客がミンナ俺の背の高さの倍以上の高さに見えたこと以外は覚えていない。何処へ連れて行かれ何をしたのか一切記憶にない、4~5歳児の記憶はこんなものである。
たいがい忘れたが 中学の同級生に 安藤という強者がいた 背が高くガッシリした体格で気も強く(気が荒くは無い)他所の村の中学との睨み合いの局面などには 頼り甲斐が有った。ナイフなどをチラツカセル奴も居たが 殴り合いの喧嘩にまではならずに いい加減で 双方とも 折り合っていた。。安藤は 中卒で自衛隊に入った。これは電車の中で偶然出会った時に本人から聞いた。、、、しばらくして 俺が大学に入った後に 安藤は 刑務所の塀に自動車で激突して亡くなった と 此れは風の便りに聞いた、一瞬チキンレースをしたのかな とも妄想したが 多分スピード出し過ぎの事故ではないかと思い直しました。。。あれから半世紀以上経ちます、あらためて ご冥福をお祈り致します。
たいがい忘れたが 敗戦後の 俺の田舎では ハエが縦横無尽に飛び回っていて 腕や頭の上に駐まったぐらいでは誰も気にも留めなかったが 一応は対策として 透明ガラス製の 一尺足らず直径の深鍋状の ハエ取り器が有ったが 其れを 台所土間からの小縁のちかくの茶の間辺りに置いていたような気がする。大きな隙間をつくって透明ガラス製の蓋もあったような気がする。この中に重湯を入れて置くと ハエどもが次々に入り込んで舐め 極楽極楽と喜ぶが 二度と飛び立てない。何時の間にか 白い重湯糊の液面が かなり黒く埋め尽くされると重湯糊ごと入れ替え処分する。当時は当たり前すぎて何も思わなかったが、70年近く経って思い起こしたら( 自分は飛蚊症なのだが 実は台所に居て 弱いぶう~~ん という<<音の聞こえる飛蚊症>>に進化したと思ったら どうやら本当にハエが一匹飛んできていたのである 庭に生ゴミを捨てて置いたのが原因かも、、、これで昔のハエの大群を思い出したのです )あの時のハエは極楽極楽と思った直後に地獄を知ったのだな~と思いました。。
BS3番組プレミアムカフェあの夏ー60年目の恋文ー(2006年)60年後の奇跡の再会【昭和19年の夏 国民学校4年男子組ヨンダンに赴任した雪山汐子と教え子の一人が別れて60年後の2004年に奇跡の文通を開始した そして再会 そして汐子の教生日記をもとに <あの夏、少年はいた> も出版されたという】 の再放送を観て 俺の小学校3年担任の佐々木先生のことを思い出した。佐々木先生は若く美人の先生だった点は放送された雪山汐子と重なるが 俺のエピソードは BS番組とは異なり 惨めなものである。まず小学校3年の5月終わりごろだと思うが多分学友3人と校庭にある遊動円木で代わる代わる漕ぎ手となって遊び 其の時の順番で俺は遊動円木の中ほどに一人で乗って二人は遊動円木の両端の漕ぎ手となり遊んでいたが二人が大きく漕ぎ過ぎたために俺は振り落とされぬよう遊動円木にしがみつくも振り落とされて地面に腹ばい 背中の上を遊動円木が往復していたように思う(無我夢中で其の場の状況や姿勢を実はよく覚えていない) 丸太は太さが50cmぐらいで長さが5M位だったような気がするが其の円木や両端の支持金具が漕がれて往復運動し惰性で暫く止まらないので 其の円木や吊り金具の下端が頭に当たらなかったのが不幸中の幸いだったと思う、しかし遊動円木か支持金具が背中をかすったようで直ぐに保健室?(保健室などは無くて教員室かも?)に運び込まれ背中の大怪我の応急手当を受けたが当時は救急車などなく応急手当だけして病院へは行かず帰宅させられた(電話も自動車も身近にはない時代で 親への連絡有ったかも不明 親が背負うかリヤカーなどに載せて家まで連れ帰ることは可能だが其の記憶も無いので 多分自分で歩いて帰宅したと思う、連絡は預かり手紙か又は先生が我が家まで来てくれたかだが?)、背中には指の長さ以上の切り傷が出来て骨まで達するような深さの傷だが出血は無く痛みも無かったように記憶しているが傷は大きいので大怪我である、カマイタチだと言われた、 通過した誘導円木の所為で かまいたち鎌鼬になった(この時の傷跡は背中に今でもはっきり8cm?ぐらいで残っている)、、、其の後のこともよく覚えていないが確か医者に行ってはいないし(しかし我が家には結核で自宅療養中の叔母さんと長兄と長姉がいた、3人とも結核であり 3人を診るために磯浜町から宮崎先生が往診に来てくれていたので 専門外だが一度ぐらいは診て頂いたかも。因みに我が家は中気で下半身不随で寝床で上半身だけ起き上がっていて昔話を俺にしてくれる祖母と前述の三人と次兄と父と母と俺と合わせて8人暮らしの農家であった)自分では大怪我と言う自覚は無かったが <兎に角大怪我につき自宅療養ということに決まり> 其のまま長期間登校せず自宅療養していると夏休みに入ってしまい夏休み明けに登校した。この長期自宅療養中 親は農作業に忙しく特に母は結核の三人と祖母の下の世話で忙しく俺に口出しもなく 俺は勿論 自習などしないで遊んで暮らしていたので イキナリの2学期の学習はチンプンカンプン、、、特に算数の掛け算九九は1学期に学習終了していたらしく 毎日放課後に教室で佐々木先生が1対1で九九を特訓してくれたので確り覚えられて有難かった。、、これだけならメデタシメデタシなのだが ある日の授業時間中にお腹の具合が悪くなり慌てて便所へ向かったが間に合わず 長い廊下の中ほどにある便所にたどり着く前に点々とウンコをズボンの裾から廊下に落としてしまった。サアー大騒ぎである、、、佐々木先生は校内トイレ室で俺のズボンを脱がせて下半身をキレイに拭いて洗って ズボンも洗って絞って穿かせてくれた、廊下や便所の簀の子などの清掃は誰が遣ってくれたのか今にして思うに他の先生や用務員さんなどかもしれないが当時はそこまで思いが至らなかった(皆様にお世話になりました)。早退となり学校から自宅までは徒歩50分ぐらいだったが憂うつな気持ちで一人ぼっちで帰った 帰っても親には何も話さなかったので此のことは家族の誰も未だに知らないままである、まだ戦後の貧しい時代で電話もないから学校も家庭にいちいちは何の連絡もしない。それから一年間ぐらいは 上級生・同級生の一部から ウンコモラシ うんこもらし 。。。と貶されたが 不思議と そのことで俺は学校へ行きたくないと思ったことは一度もなかった 打たれ強いのかもしれないが 学校へ行きたかったし学校が面白かった、学校へ行かずに遊んでいる暮らしは鎌鼬の一件で3か月以上自宅療養で経験済みであり テレビもない時代雑誌を買う金もないし 貶されても学校の方が変化に富んでいて面白かったのであろうと思う そのうち一年も経たずに 不思議と 何時の間にか 貶されなくなっていた、、、。。
かなり前の話になりますが 私が入社した時 新入社員全員に算盤が貸与され 見積作成などに活用した。世間一般に電卓は未だ無く 社内で数少ない手回し計算機を共用していた。。世は高度成長期 それから10年も経たずに小型電卓が普及し 私も購入し大いに利用させてもらった。
たいがい忘れたが ふとしたことから 俺が小学校3年生の5~6月ごろの自分自身の大事件を思い出した。それは昼休みか又は次の授業までの休み時間に校庭で二人で遊動円木に乗って遊んでいた時の出来事である。俺が一人だけ遊動円木に跨って乗りもう一人の同級生が端に立って乗って漕いでくれていたのだが だんだんとブランコ宜しく遊動円木の振れが大きくなっても其の同級生は吊り金具を掴んで立っているので益々気持ちよく大きく漕ぎ進めた結果 暫くは俺も何とか遊動円木にしがみ付いていたが 堪らず遊動円木から落ちた。落ちた瞬間に誘導円木の金具が俺の背中ぎりぎりを通過したと思われるが無我夢中で定かではない。痛みも有ったか無かったか定かではないが 大騒ぎとなり先生などが来て校舎内に運び込まれ手当てを受けた、カマイタチ鎌鼬だと言われたことは覚えている、俺だけ授業中断となり学校から4Km位離れている自宅まで送ってもらった気がするが其れも無我夢中で記憶ははっきりしない、昭和20年代の田舎で電話などは無く 突然帰宅した俺を見て家族もビックリしたことと思われる。その日から怪我治療中という扱いになり次に登校したのは夏休み明けだった。都合3か月ぐらいの長期休暇となっていた。確かに背中の中心から少し左に横にパックリ傷口が出来て大けがではあるが 俺は痛みもなく運動に支障もないので これ幸いと門前にちかい溜池で小動物を捕まえたり好きな事を遣って毎日遊んで過ごしていた、両親も他の家族も農作業他に忙しく何も注文は付けてこなかった。。。夏休み明けに登校すると 特に算数がチンプンカンプンである、一学期で既に掛け算九九は終えていたのである。そこで毎日放課後に担任の佐々木先生が俺一人を教室に残して掛け算九九を特訓してくれた、お陰様で算数も段々と得意になった気がします。佐々木先生は大学卒業してあまり経験年数も少ない女性の若手教師で意欲的だったのではないかと今になって想像しています。本当に有難うございました。
たいがい忘れたが 7jan2023おせち御馳走や塩鮭の話題有り つい昔の正月を思い出しました。 海に面した大洗町より涸沼川を越えて田園地帯の中に在った私の生家では 江戸時代ごろからの習慣だとして 正月元日から三日までの朝食は 焼いた餅に鮭の塩引き(切り身)あるいは黄な粉 だけで済ましていました。お雑煮やお汁粉は早くとも三が日が明けてからであり 戦後暫くまでは 松の内が明けた朝に鏡餅を割り父親が門の前の池の側の畑に餅の欠片を供えて<から~す 烏 カラス>と大声でカラスを叫んでから家に入り 鏡餅を割って造ったお雑煮を正月になって初めて頂いたものです。。このように質素に正月を祝う理由は 幕末の動乱時の御先祖様の苦境を せめて正月三が日だけでも偲び共にする為と 戦後しばらくして小学生になった私は親から聞いたような記憶があります。この地域で我が家以外でも其の様なことをしていたかどうかは寡聞にして分かりません。私の生家から6里西に離れた私の母の実家土師では元日からお汁粉を頂いていたとのことであり 子供の私は多少羨ましく思いました、 多少というのは物心ついて以来 年末の餅つきに始まり元旦は男だけの餅焼きと塩引きと御酒だけで祝う朝が始まるのが当然と慣れ親しみ身についていた為です。蛇足ながら元旦の朝は女房など女衆は朝寝坊する決まりになっていて 先ず男だけで準備してお祝いまで済ませた後に おもむろに起きてきて女衆の祝いが行われ朝が始まるという慣習でした。三が日はこの決まりでやっていました。三が日が明けると女衆が真っ先に起床して忙しく働く日常に戻るのです。
小学二年生頃の私が落下した上面開放型半地下式コンクリート防火貯水槽(多分水量50トンぐらい)が子供時代の我が家から70メートルぐらいの道端にあった。貯水槽の上面は全くのオープンで蓋も存在しなかった、当時の田舎では誤ってその中に落下するような迂闊者は 落下する方が悪いというか いざという際に直ぐに採水できる利便性あり経済的にも安全対策に手が回らず 我が家の裏手を含めて そこら中に同様の防火貯水槽が点在していた、地面からの立ち上がり高さは2尺ぐらいだったように記憶している。もちろん私も単純に落下したわけではない。其の時は 其の貯水槽の畑側の立ち上がり部分ぎりぎりまで乾燥済み稲藁の束が高さ3尺くらいに大量に積み上げられていて K君と二人だけで近くで遊んでいた私が何かの理由で其の稲藁の上に乗ったところ藁束ごと貯水槽に滑り落ちたという次第である。然るに 貯水槽の水面から貯水槽の壁の上面まで2尺以上あったので手が届かず且つ水深が深くて背も立たず だが運よく一緒に滑り落ちた稲わらにしがみつけたので 泳げなかった私も直ぐに溺れることは無かったが其のままでは時間の問題であった。未だ未就学児だったK君がK君のお母さんを呼んできてくれたので K君のお母さんが手を握って引き揚げてくれて私も一命を取り留めた。K君が素早くお母さんを呼びに行ったこと お母さんが家にいたこと などなどが幸いした。命の恩人です、、、当時助けられたことに感謝していたが 自宅に帰っても家族に何も言わなかった自分がいた、、、勿論濃密な近所付き合いもあり我が母に話は伝わったはずだが 家族から特別に叱られたり注意されたりすることもなく その後も自由闊達に確かに生活させて頂いて今に至っています、有難うございます。