14 いい加減 長い目で広い了見で 冬景色知らぬ蝉を知って謙虚に
最近の世間の進歩と洗練された表現などには ときどき驚き ついてゆけない気持ちになることが有ります。立派過ぎる印刷物 先回りし過ぎるNETの世界 みんな頑張って立派な仕事をしている、キチンとしている、、、、。昔もみんな頑張ったが今よりも何処かでイイ加減というか手抜きできたというか管理できていないというか非効率というか泥臭いというか誤差の許容範囲が広いというか間違いをしでかしてもドンマイというか其のうち何とかなるだろうは歌の中だけではなく現実世間で了解されていたように感じています。。
私は いいかげん こそ生物が生き抜く 本当は良く分かっていない此の世界を 人間が生き抜く力の源泉であると思っています。AIや科学者が世界の全てを解明してくれるという夢を持って前進することに異論はありませんが 無限の事象に満ちているこの世界の全てを解明し予測し制御出来ると考えるのは妄想であると思います、少なくとも達成まで に無限に永い時間を要するから事実上出来ないことと同じと考えられます∞/∞=∞でゼロや有限の数が此の解とは思われません。AIが縦横無尽に活躍しても 想定外の事態は永遠に発生し続けると私は考えます、だから諦めましょうとは言っていません、頑張りましょうと言っています 突然変異進化も含めてアラユル変化を受け止めて いい加減 で手を打つ心構えで生きることを堅持しつつ 自分達で出来なかった事は次世代以降の世代に託しましょう 多分 私達の子孫は この宇宙で生き残れるでしょうと言っているのです。。多分 という言い方が気に入らないという方々は 多分 いい加減で手を打つ方々よりも今後ますます生き難くなるような気がしております、。。
いいかげん とは調和を図ることに似ています。 適当に手を打つということ・異なるベクトルのバランスをとることにも似ています。 あるいは多様な長所短所・多様な良い作用と副作用・多様な利害得失・多様な異なる信念や思想や主張・多様な異なる人々の存在などなどアラユル自分とは異なるベクトルや異次元の存在などと いいかげん に共存し適切に棲み分けるなどの知恵を働かしながら暮らすことを 示唆しています。科学的研究などでは完全を目指すのは当然ですが 生きてゆくこと・暮らし生活においては完全を目指すのは問題を引き起こす可能性が高く 適切 調和 いいかげん が良さそうです、囲碁の戦いでも最強は最善ならずという考え方があり これは最強は完璧を目指す遣り方だが 完璧ではない人間であることを自覚して 欲張らず妥協した方が最善の結果に至る可能性が高いというような考え方です。。
自分の専門分野の追求において妥協せず厳密に考察し解明することは極めて大事であり その際に いい加減さ は有ってはなりません。しかし専門分野のような切り分け部分ではなく もっと 総合的なものごと たとえば あるべき社会構造はとか 此の世界とはとか 人生とはとか 生きる意味はとか 人間の優劣とか 生物の存在価値優劣は というような 要因∞無限に多い的事柄 に関する追求においては いいかげん で追求の手を休める あるいは妥協するなどが お勧めです、マラソン競争で一番にはなれるが 人生競争で一番にはなれないというか定義の決め方で順位が激変してしまう、大きい順で一番の人は 小さい順ではビリです。。。。。毎日を生き生活してゆく際にも いい加減で手を打ちながら 確かな暮らし優先で善し 悩み苦労困難多々有るものの 時には忘れて楽しみ探し 出来ることを探し 兎に角 しっかり生き抜きましょう、、、今日やるべきことが出来なかったから徹夜して頑張るなどは私も時々遣りますが何日でも連続徹夜では潰れますから 未だ出来ていなくとも一旦忘れて眠ります休みます それから再び頑張ります 其れと同様以上に無限事象全体超長期戦では自分達で精一杯の完璧を成して(これは後世から見ると欠陥だらけで結果的に不完全・好い加減な代物になっていると想定されますが)自分達は永眠し 其れを次世代以降にバトンリレーすることになると考えられます。無限事象全体問題に関しては完璧解は有限時間内には得られないと考えられます 従って現実の私達は いい加減でも何でも しっかり生き抜いていれば善しとしましょう、其れを私は言いたかったのです。
理路整然として間違っている 後世に至って誤りと判明などの理屈や思想は少なからず 理屈と膏薬は何処にでも着く 常識を理屈が覆すこと大いにあり だが逆に 理論は一つではない各々の理論を常識や肌感覚で検証し続ける姿勢を大切にしたく存じます。調査結果 実験結果 などをどのように理屈付けるか なるほど納得の思想も後世に過ち誤りとされること少なからず 優生思想も戦前世界を席巻しナチスドイツだけ特筆されているが事実は北欧各国は断種法を制定し米国でも優生思想支持勢力絶大であったし日本でも優生保護法が1996まで続いた、、、そして 少なくとも21世紀の今では誤った思想とほぼ確定している。
責任が果たせなかった成果上がらず仕事に失敗どうも人間関係うまくゆかないetc、、、悩み自責の念強まり鬱になる方も居られる、特に完璧主義と見受けられる方、 や 自分は十把一絡げのオマイラとは違う人間だと内心で思っている方などが 困難失意問責苦境に陥ったときに此のような展開が見受けられるとも聞く。。しかし 達成する成功する成果が上がるという場合の<活躍できる要因>は 自らの能力・自らの努力はおおきいものの 自分も知らない縁の下の力持ちの存在・自分が活用できるような成果を先人が残してくれていたこと・周囲の関係者の存在・これまで自分を育て成長させてくれた親族や世間の存在・自分に活躍の場を与えてくれている社会環境・歴史的偶然・自分の成果を評価してくれる人々がいたこと等々 多々の要因であり 成果は決して個人の能力と努力頑張りだけで得られている分けではないと考えます。。例えば 俺の力でのし上がったんだと一世を風靡していた芸能人がスキャンダル一発で突然出演できなくなり二度と見向きもされない例は時に見受けられますが其の方の抜群の能力と努力は認めますが 一種の思い上がりで 前述の<活躍できる要因>を忘れた行動をしていたためであると考えられます、其の人が居なくなっても代わりがその穴を埋めているから不思議です一時的混乱が生ずるのみです、その人が居れば其れなりの状況があり居なければ別の状況がある只それだけのことだったのです。 自分に活躍の場を与えてくれている社会環境が喪失したという要因激変で 其の方の抜群の能力が衰えたとは言えない状況でも二度と復活できないのです。、、、、翻って 一般の我々は 目標達成できず成果上がらず人間関係上手くゆかず等々に陥っても 反省は必要だが <活躍できる要因>が揃わない ある意味で運が無い一面もあると考えて 自責の念のみ強めることがないようにしつつ 無理のない範囲で 必要な努力しつつ為すべきことを為しつつ確かに暮らし生きることが望まれると思っています。運よく<活躍できる要因>が揃えば活躍できるでしょう。前述の多くの要因の出現確率と適正バランス調和は個人の人間の努力により変化しますが時代や社会状況にも もっと大きく影響されると考える方が落ち着いた解釈かと思っています。。いわゆる 生かされている に似ています。創意工夫努力は必要ですが一種の運命を認め いいかげんバランス を認め 自分を少し軽く扱い その上で 確かに暮らし生きる それが良さそうです。。
有意義に過ごす と言うコトバを広義に捉えたいと思う。狭義に捉えれば 有意義な活動をする 政治経済文化に絡んで他人に評価されたり自己満足したりするような活動をする という 何かをすること になりそうですが。広義に捉えて 脳も体もリフレッシュさせるような ぼんやりタイム 寝て過ごす 何にもしない などなど も有意義に過ごしていると捉えたく存じます。毎日 睡眠を取ることは有意義なことと理解している延長線上の考え方です。もっと拡大解釈すると いい加減な考え方や行動も きっちりした考え方や行動の母集団として 此の世に存在している有意義なものとも考えられます。。
無駄な研究 無駄な仕事 無駄な人 などなど 効率第一目先利益第一で 企業も行政も教育研究界も 目先の役立たずを切り捨ててきた、特に近年は著しい。。いわゆる働かない人は世の中の役立たずと考える方が多数派だろう。しかし生産的には働かなくとも飯は食い消費する 生産は消費有りてこそ成り立つ 消費する事だけとっても働かない人も大いに消費するので大いに世の中に貢献しているが それよりも無駄飯食いも世間という重要な人間社会構造を構成している一員であるという大きな役割・働きをしていると私は理解しております。。第二次世界大戦後の農村で育った経験で言えば その頃の日本社会は今より無駄飯食らいに寛容だった気がする少なくとも当時の農村や多くの終身雇用制企業ではそのような気がする。。無駄と思っても大目に見る いいかげんな社会 長い目でみる社会 了見が広い社会 そのような社会の方が千年先の人類の生存に有益な社会的突然変異生物学的突然変異や適応を産み出しそうな予感がして 私は好ましく感じています。
俺は一人で立派に生きていると意気軒昂なのは結構ですが 実は世間の中で生かされています、ロビンソンクルーソーとの違いは大きいのです みんなが居て世間が成り立ち自分も生きているのだと思います。新型コロナ感染症の蔓延抑制の為の施策として日本全体で不要不急の外出自粛が叫ばれて多くの商売が休業に追い込まれている 感染症の統計的研究者の提言に基ずく此の流行拡大抑止策には短期的には賛成ですが この場合の不要不急という言葉は早期流行終息を目指す行動と言う観点から言っている不要不急であり 人生とか世間全体社会全体の在り様という観点から見た不要不急ではありません。この世間を 長い目で 広い了見を持って 見渡せば 無くてよい存在などない・長い目で広い了見でみて不要不急などないと考えられます。逆に観れば 永遠に無くてはならない存在なども無く 其の時々の社会状況の変化の中で必要だとか不要だとか見なされる局面があるだけだと私は観察しております。価値ありとか無価値とかの評価も流行や社会状況や時代により変化やむなしです。少なくとも金を払う人がいる限りその仕事や物は必要とされていますが 実は買う人がいなくとも存在価値はあることを示す出来事が2020年4月20日に起こりました、それはWTI原油先物市場で5月物の買い手が中々現れずマイナス37ドル/バレルでやっと買い手が見つかりました、売り手は買い手からお金をもらうどころか原油を渡した上に37ドル/バレルのお金も渡すことになりました、ゴミ扱い不要品扱いです、ゴミなら処理費を支払うのも分かりますが原油はゴミではありません。ガソリンなどの元になる立派な資源です其の局面で買う人がいなくとも存在価値は十分あります、でも状況次第でゴミ扱い不要扱いされる局面が生じたのです。
難病で遂には要介護5となった家内を自宅で私が介護し5年前に家内が亡くなった後は、精神障害当事者の長男と二人暮らしをしています。従前より家事全般を私が担っています。うちの精神障害当事者は 20年前に発症し今も困難の中で生きています。当事者の部屋はゴミ屋敷ですが問題発生しない限り介入しません(昔は部屋の掃除をするよう注意助言したり勝手に片付けをしたこともありましたが精神症状にとっては逆効果と今は考えています)。そうしていると当事者自身が困って大きなゴミぐらいは片付けします、寛解しない限り 万事このような生活で当事者の人生は終わる運命かもしれませんが其れも止むを得ずと諦めて平和共存しています。介護あるいは支援者である私の考え方や理想を押し付け助言や直接的強制をするようなことはせず、当事者なりに出来ることを精一杯して日常生活を確かに暮らし生きることを大事にし見守る そのことが当事者を大切に思い尊重することでもあり寛解に向かうかもしれないと考えるからです、これを基本方針としています。当事者のストレスにならない程度かつ助言強制とならない程度かつ頻度稀に QOL向上に資すると思われる日常生活行為の誘導示唆を行うことはありますが(たとえば 炊飯を担当しないか?と軽く問いかけなど) 基本方針との兼ね合いが悩みの種です。
<なめるな> などと感情的発言をする論者やマスコミが少なくない。問題点矛盾課題などを具体的に明示して理性的論理的に発言すべきである。其の発信者の方が いかに正しく正論を述べていても <なめるな>に類する感情的な表現を交えて論じている場合に 私は 其の傲慢な姿勢を改めぬ限り 其の論を・発信を評価する気になれません。
<取り繕う>ことは やってはいけないこと というのが世間の常識です。繕い物と言う言葉もあり 繕うことは良い事ですが 取り は取り敢えずの取りだから 間に合わせだから 悪いという解釈のようです。確かに 取り繕いは 言い訳ばかりとか 何時もいつも 間に合わせを遣っているという使われ方をする言葉です、それを改めて 失敗は認め反省して次に生かし 物事には本格的に取り組む姿勢が理想であると私も思います。しかし人間は完全ではないし特に高齢になるにつれて修理しきれない事柄も増えます 例えば 認知症患者の症状を表現する用語の一つに <取り繕い反応>なるものがありますが、これも症状をネガティブに捉えた医療者による表現のようですが 私は心身の能力が平均像より漸減しつつある方々に対してもポジティブに捉えて 高齢などで身体や認知などに御本人が何らか感じ取った困難を取り繕い頑張ることを前向きに受け止め声援を送る者です。 悪いイメージに染まってしまった<取り繕い反応>なる言葉に代えて 困難取り繕い頑張り反応 短縮して <取り繕い頑張り反応>という言葉を提案し声援を送りたく存じます。何とかしよう何とか良く思われよう などと咄嗟に自らの身体や認知における困難を取り繕い頑張る努力を 私は前向きに評価し頑張れと声援を送る者です、決してエエカッコシイだなどとは見ていません、結果として世間で言う<取り繕い>に過ぎないことになっても其の前向きな気持ちと努力を評価いたします。そもそも 世間では<取り繕う>という行動をネガティブに捉えざるを得ない場面で切り出して記録したり文芸にしたり悪い見本としたりしてきたし 識者や評論する先生方も 当事者が少しでも良くなろう良く見せよう取り敢えずでも何とかしようと頑張っている一面には一顧だにしない。ここで私の子供時代の<取り繕い頑張り>体験を思い出す、自宅から2Km足らずの処に川幅100Mぐらいの潮汐川があり毎年夏になると餓鬼大将以下子供たちだけで屡々泳ぎに行った、学校からは過去に溺れ死んだ子がいたので行くなと指導されていたことなどは何時も忘れて 上級生は水深数メートルある川の中央あたりまで泳いでいたが 低学年で且つ泳げなかった私は岸辺の浅瀬で泳ぐまね事をして遊んでいたが ここで<取り繕い頑張り> 頭を川面に出しても両手が水の底に届いている深さの浅瀬を見つけて 顔だけ水面に出して水底に両手を突き犬掻きもどきに浅瀬の水底を両手で搔いて泳げるふりを繰り返していました、自分では無意識ですが<取り繕い頑張り>をしていたのです、、すると ある日突然 本当に犬掻き泳ぎが出来るようになったのです。これは<取り繕い頑張り>のポジティブな一例であると思います。一方で 来客予定あり 玄関先の掃除の代わりに目立つゴミだけ拾い集めるという例は<取り繕い>としてネガティブに評価される一例とみられますが 想い通りにはどうせ遣っている時間がないのだから有りの儘の姿を見て頂くと言って 取り繕うこともせず何もしない方が良いかと聞かれれば 私は 玄関先を 少しでも小奇麗にしてお迎えしたい 確りと掃除は出来なくとも 出来る事だけは何とかしたいという<取り繕い頑張り>に着目して 一歩でも二歩でも前向きに頑張ったことをポジティブに評価したく存じます。不完全の代表の一つである<取り繕い>だが 出来る事を少しでも遣れる処までやってみる<頑張り>でもあると前向きに温かく観たいと存じます。。